余命10年をみました。
気づかされた言葉
先日金曜ロードショーでやっていた余命10年を録画で見ました。
もともと本屋さんで置いてあるのは見かけていたのですが、今回映画化されたものを、この機会に見ました。
めちゃ泣いちゃったな。
現在見終わってすぐ書いています。
特に印象深かった言葉がふたつ。
・かず君がまつりちゃんと離れざるを得ない際に、店長に「次を探せばいい」と言われたとき、「次なんてないですよ。」と言ったこと。
・かず君の「僕の人生は平凡だけど、隣にまつりちゃんがいる。」という言葉。もしこんな言葉を言ってもらえたら、自分は世界に一人、いまこの人の隣で生きているんだなって思えて胸がいっぱいになるだろうと思いました。(聞いていてなりました。)
生きること
この作品を通じてありきたりかもしれませんが、
生きることは愛することだと思いました。
余命10年という期間。
なにもしないには長すぎる。人を愛するには短すぎる。
でもどんなに短い期間でも人間は愛がないと生きていけないと思いました。
かずくんはまつりちゃんと出会えて初めて、ただ存在しているだけの惰性の生活から抜け出して、生きることができた。
まつりちゃんもかず君に出会えて初めて、ただ死ぬまでを待つような10年間から抜け出して、生きることができた。
この意味において、つまり、人を愛した時間が生きた時間なのだという意味においては、生きた時間がどんなに短くてもどんなに長くても、それが生きた証になるのだと思いました。
環境と愛
まつりちゃんの周りには、愛が溢れています。かずくんからもらう愛はもちろん、まつりちゃんのお母さん、お父さん、お姉ちゃん、友達からも。
まつりちゃんは病気を通して周りの愛にちゃんと気づいていて、物語後半にお姉さんに「ありがとう。」と言っていた場面は涙が堪えられませんでした。
私たちはまつりちゃんの周りの環境に嫉妬するでしょうか?
まつりちゃんと出会う前のかず君は周りの人に愛されることなく孤独に生きていて、最終的に窓から飛び降りることを選んでしまいました。この時のかず君ならまつりちゃんに嫉妬してしまうと思います。
こんなにも愛されていていいな、なんて。少なくとも私は思ってしまいます。
そして、何とか一命をとりとめたかず君に対してまつりちゃんは「そんなの、ずる過ぎる。」と言いました。この時のまつりちゃんは、自分に注がれている愛が生きる上でどれだけ大切なものなのか、気づけていないと思いました。
この時の二人は寿命に関しては対極にいます。
かず君はもう生きたくないのに長く生きなきゃいけない。
まつりちゃんは生きたいのに長く生きられない。
そして愛に関しては同じ状況にいます。
かず君は周りに愛されず、愛に触れていない。
まつりちゃんは周りから愛されて、でも愛に気づけていない。
二人は出会うことで、かず君は愛に触れ、まつりちゃんも愛に気づくことができた。
身の回りの愛
私はここにおいてかず君の状況に注目したいです。
かず君の環境には本当に愛がなかったのでしょうか?
どうして私たちはまつりちゃんの周りのような環境に嫉妬してしまうのでしょうか?
私たちは、かず君の状況に心情を重ねがちですが、本当の状況はむしろ、かずくんと出会う前のまつりちゃんのように、周りの愛に気づけていないだけなのだと思います。
私たちは周りの愛に目を向けられているでしょうか、
気づけているでしょうか、
私たちはいずれ死ぬことがわかっていてもそれを常日頃実感しているわけではない。だから生きることにも愛についてもちゃんと考えることが少ない。
好きな人に好きと言えること、
体が健康であること、
ごはんが食べれていること、
大切な人がまわりで生きてくれていること、
どこかの誰かが見えない私の気づかないような仕事をしてくれていること、
死を意識するような病気がなかったとしても、もらっている愛や溢れている愛に気づいていたいですよね。
でもやっぱり気づけなくなるくらい追い込まれることってあるから、こうやって映画を見たり本を読んだり、自分のしていない体験をしている人から話を聞いたりして考える機会をもらうことは素晴らしいなと思いました。
最後に余命10年の作者である小坂流加さんが天国で幸せでいることを願います。
本を書いてくれてありがとうございました。
追記
あとあと!
カメラが
まつりちゃんの同室の患者さんの手からまつりちゃんへ、
まつりちゃんの手からかず君へ繋がっているのが嬉しかった。
かず君のお店もあるし、まつりちゃんはこの世界を生きたんだなって思いました。