石帯について
追記 24-05-12
「余談」に書いた内容を少し調べてみたので補足。
石帯が2つに分かれた理由について「リペアを簡単にしたため」と記載したけど「永陵玉大帯」というものが1942年から43年にかけて発掘されているのね。この石帯はバックルで分かれていた事が確認できるので、ひょっとしたらこの影響かも。
永陵玉大帯(成都永陵博物館のリンク:音楽が鳴るので注意)は五代十国時代の前蜀、王建墓の遺物で年代としては10世紀初め。日本は醍醐天皇の延喜のとき。時期的にもリンクしている。
でもどのようなルートで日本に伝わったのか全く想像がつかない。
ここいら辺は考古学と日本の文化史研究、そして中国史(服飾関係)のコラボレーションが必要な研究なので科研費とらないと研究できそうにないよね。本業の学者さんに頑張ってもらうしかないね。
(科研費の検索で2件、前蜀の外交関係を調査している研究者がおりますね。だけど唐と五代十国の外交関係についてがメインのようなので唐から日本に文物・文化がどのように流入したのかは範囲外のようです)
束帯のいわれ(?)ともなった、と解説がされている「石帯」について気になることがありすぎるため、まとめてみた。
だけど、石帯、知っているようで深すぎて、そして史料がかなりあいまいなのでドツボにはまってしまった。。。
2つにわかれた理由(ものすごく雑に推測)
承香院さん(@jyoukouin)のXについ最近、話題になっていた。
(わたしも写真のみを見てコメントしてしまったので、承香院さんのコメントと同じ内容のものを書いてしまいました。。。)
それはさておき、ツイートでも書いたように正倉院の遺物としてラピスラズリの石がついている「玉帯」(正式名称は「紺玉帯 残欠」)が伝来をしていて、この「帯」は、現在スーツなどで使われるバックルとベルトの形状そのもの。
しかし、「光る君へ」で用いられているように平安以降から現在の束帯にも着用されているのは、図1の様に1本の皮ベルトではなく2つに分離してしまっている状態と推定できる。
なんでそんな1本だったベルトが2つに分かれて、組紐でつなっている異様な状態なんだろうか、と手元にある故実書(群書類従や故実叢書)をあたってみたが、2分割された理由が解説されていない。
そこで最初の正倉院の遺物をさらに詳しく見てみて。
まず、この石帯は途中で切れてしまっている。ちぎれちゃっている部分を拡大してみると四角の石(装束の用語だと四角が「巡方(じゅんぽう・ずんぽう)」。さらに丸いのは「丸鞆(まるとも)」)の取り付けられている部分で断裂している。さらに、片側の「ちゃんとつながっている部分」を観察すると、
●●●■■●
が標準の並び順と想定されるので、断裂してしまっている箇所を見ると
●●●■(断裂箇所)
となっている。ということは残りの「■●」の部分がどっかに行ってしまっている。
次に文化財のため石のサイズもぬかりなく計測されていて、横幅が
巡方は3.6センチ、
丸鞆は3.3センチ
と記載があり、隙間を考えると約8センチは紛失してしまっている、ということになる。
そして、この切れちゃっている状態の全長は156センチなので、8センチ足すと162センチもしくはそれ以上の長さのベルトだったことになる。
そこで、皆さんが持っている皮ベルト、測ってみたことあります?
測ってみると大体100センチぐらい。楽天市場で紳士用ベルトをいくつか見ても110センチ前後のよう。
まぁ、通常の体形ならば100センチ(1メートル)もあれば十分に調整可能ということ。
しかし、古代の人のベルト、160センチ以上ってどんなに長い。
(この長さ、西洋の中世の騎士が着用している皮ベルト、先端についている輪に通して、外れないように通した輪の場所で肩結びしているやつ。あの皮ベルトが160センチ前後なので、なにか似ている感じ)
正倉院の玉帯はバックルがあってバックルの中にはちゃんと尾錠と呼ばれるピン状の留め具もついているので、本当に現在のベルトの構造と同じ。先っぽを通して程よいところの穴にバックルのピンを入れて固定する。この構造で重要なのは留め具と留め具を入れる穴の場所。
これもよく見てみると先端からかなり入ったところに穴が3つ空いている。ってことはベルトの先端部分がかなり余っているってこと。
そう。図1にある現在の束帯に用いられている上手(うわて:石が端にしか付いていない)部分に相当する。
でも、なんで先端部分を長くして余った分を後ろに回してさらに、たくし込むなんてことしたんだ?
ちょうどよい場所に穴をあけて、今のベルトのように余った部分をそんなになくしたらもっとスマートに着用できたんではなかろうかと思ってしまうが、現代人と古代人の考え方の違いは今後も一向に同意できないままだろうと思ってもいる。
(あるていど、見てくれや経済観念は理解はできるが、ただでさえ物が少ない状況であえて長めの皮革製品を作ろうと思うことがわからん。)
奈良時代から平安中期はベルト自体も多少なりとも全容が見えている装束だったが、中期以降には強装束というかなりオーバーサイズな装束が出てきてゆったりと着込む場合にはベルト全体が見えることもないし、革製品ってそもそもが手に入りにくい。そして問題なのが断裂してしまった場合のリペアが面倒なので、
いっそのこと切れるものとして考え、だったら最初から分割して、簡単に作れる組紐で連結させてしまえば、いいじゃない。
という気づいた「アハ体験」した貴族か、貴族のお抱え工人が居た。と考えている。
ここまでは私の推論。
有職故実の大家である鈴木敬三先生は「強装束化して自身で石帯がつけられなくなったため、2つに分かれた」と書かれている。
それも確かにあり得るし合理的な解釈で多分こちらが本流だとは思う。だけど、結局のところ革製品の手の入りやすさや切れてしまったものを再利用するといったことも検討されてもよいと思っている。
ベルトへの石の括り付け方
リペアの話の流れで、ではベルトにどうやって石を括り付けているのかも注目してみたい。
正倉院の玉帯は表・裏を見れる構造で写真があり、ラピスラズリの石を裏から銀で鋲打ちしている構造。
表側のラピスラズリには鋲頭が、裏には板状の抑え具があってそこにも鋲が見える。いうなればリベットでかしめている感じのよう。これだと、リペアするときはすごく面倒。
後でも登場する長野県の「長野市文化財データベース」にある石帯の石はいずれも表に穴は貫通していなく、穴をうまいこと裏面だけにして、括れるように開けている。
そこに針金や糸を通してベルト本体の裏に括り付けていたということだろう。残念ながら石は見つかっているが、革ベルトは残っていないらしいので石から想像するしかないが。
では現在まで残っている2つに分かれた石帯についてだが、石を糸止めしている。
また実際に見る機会があったら是非見てほしいが、裏側に錦を張って糸を
>>> の様に止めている。一応、外れることを防止するため膠か何かで止めてはいるだろうけどリペアは、正倉院のリベット打ちよりかなり楽になっていることが容易に想像つく。ここでも、とある貴族か、その抱えの工人がアハ体験して工夫した跡だと想像できる。
鋲(リベット)止めは面倒だな。そうだ、膠とか漆で仮止めして糸で縛ってしまったらよいじゃないの。
となっただろう。すごいよ、最初に気づいたあんたは。
石帯の「石」について
さて玉帯・石帯と言っているぐらいなので「石」が付いていないとおかしい。
実は石の形状と石材は位階によって決まっていたので、その内容についてまとめてみた。
(あと、図1の様に石に文様を彫っている「有文」と、彫っていない「無文」でも利用すべき儀式も決められているのだが、今回はそれを抜いてある。)
見てもらうとわかる通り、『延喜式』の「弾正台式」によるものが多い。弾正台は警察機構を担っていたので当時の法執行機関の取り締まりルールとして着用規定があり細かく書かれている。そこの文から抜き出して、いくつかの儀式書や有職故実書から情報をまとめたものが上の表。
基本的には、
公卿(参議以上)ならば白色の玉(オニキスやジャスパーの白いものか、場合によっては「壁」に使われるような翡翠などの白玉)帯。
非参議の四位、五位ならば瑪瑙(ジャスパー)の玉帯。
それ以下は水牛などの角帯。
となる。
上の表から色名がはっきり解るのは「白玉」、「紫檀」、「烏犀」、「青瑠璃」だけで、あとはどのような色だったのかは不明。
なので、発掘されたものや収蔵されたものからそれらしい色合いの石を確認する作業が必要。
そこで長野県の「長野市文化財データベース」には、石帯の「石」の部分が発掘されいくつか現物が写真付きで掲載されている。
このDBにある石帯の石は
黒色
灰色
白濁
の3種が確認できる。それぞれの解説文で現在の科学的な名称(鉱石名)が記載されていて黒色は「粘板岩=スレート」、灰色は「流紋岩」、白濁石は名称不明。
そこから、上の表にあてはめられるか、というとあてはめられないので実際には、元来、伝来していた石の色味に似たような別の手に入りやすい素材を使用して「白玉」だったり「犀角」や「烏犀」と呼称していた可能性は十分にあると考えている。
また「瑪瑙」とくれば現代人はおおよそ赤色から茶色のマーブル模様の入った石を思い浮かべるし、「白玉」といった場合には上記したように白色のオニキスや瑪瑙、翡翠の中でも白いものと想像できる。(なんで水晶が入っていないのかが不思議。。。)
ちなみに表の最後にある「青瑠璃」は
とあり故母儀三品殿がくれたものだけど、使い道がわからん。だけど左経記(=経頼卿記)に次将が節会に用いる、とあるもの。使い方わからないもの貰っても調べて使うということをしてたんだ。そしてよくそんな記録引っ張り出せたことに驚く。(今の左経記に青瑠璃に関する記録は見つからないが。。。)
特別な瑪瑙帯
この中でも瑪瑙は特殊なもので、
舞人が着用した場合には着用禁止
という故実がある。
なぜかというと、
瑪瑙の石帯はこの朝(平安朝)に10筋しかないので、舞人が全員、瑪瑙の石帯を着用したら、みんな持ってないはず。
だから舞人が着用している場合には仮に持っていたとしても着用してはならない、というとても特殊な理由。
この故実、
1166年 『助無智秘抄』にはわずか
1169年 『満佐須計装束抄』には8本
1400年代 『名目抄』には10本
1700年代 『新野問答』には10本
の様に有職故実書が書かれた年代によって揺れ動いている。
10筋だか、8筋だかということで、じゃぁ、いつ増減したのよ、という逸話については言及がない。
さらに瑪瑙の石帯は平安末期から「巡方帯は存在しない」ということにもなっていた(『玉葉』、『名目抄』と『新野問答』)。
でも、その『玉葉』によると法成寺の法物庫を確認したところ箱に入った瑪瑙の巡方帯が見つかってしまった…。という日記が残されている。
玉葉は九条兼実の記録なので平安末期に偶然見つけちゃった。世界に1つとして存在していないと伝説があった「瑪瑙の巡方帯」を見つけた時の驚きはもう、大変なものだったのだろう。
だけど、もっとさかのぼると『御堂関白記』や『小右記』には瑪瑙巡方という帯が記録されているので、いつのときから「瑪瑙巡方は存在しない」ことになってしまってしまったのか、調べると面白いかもしれない。
通用帯について
ようやく「通用帯」について。
まず通用帯というものは、巡方と丸鞆の2つの石の形状が一つの帯になっているもので、巡方が左右に2つ、丸鞆が巡方に挟まれて6つとなる。
そもそも、有文巡方帯は公卿専用で、格が高い儀式に用いられるもの。
有文丸鞆帯は非参議の四位と五位が儀式に用いられるもの、無文丸鞆帯は通常の出勤時に用いられる、とされている。その全部の”いいとこどり”をしたのが通用帯。なのでフォーマルにもセミフォーマル、ノーマルいずれにも利用できて、ヘビーローテーションされたものだった。
だけどこの通用帯の成立は中世以降とされている。
その中で時代区分が記録されている文献では「室町時代」とされている。(『大日本織物二千六百年史 上巻』)
また、鈴木敬三先生や高田倭男先生も「中世以降に成立」とされているがいずれの先生の文章内にも根拠となる記録類を示されていないので口伝の類か、未刊行の有職故実書などから採録された論なのかもしれない。(『有職故実大辞典』、『日本大百科全書』。特に高田先生は高田装束司の当主だったので家伝があったものと十分に考えられる。)
ちなみに室町時代の故実書と言えば一条兼良の『桃華蘂葉(とうかずいよう)』があり、その中には当然、一条家の故実として石帯についても触れられており次のような文言が記載されている。
この文言を読んでみると、下線部分「有文丸鞆帯は。巡方丸鞆を兼たる帯也」とあり
「有文丸鞆」が「巡方丸鞆(=通用帯)」を兼ねるのか、
「有文丸鞆」は「巡方丸鞆(=通用帯)」と同等のもの
「巡方丸鞆」が一緒になった石帯自体が存在しており、その石帯の利用について、次のような2つの解釈ができる。
1つ目は
有文丸鞆を使用する儀式(実は行幸と節会にはNGだよともこの後に
記載されている)に「巡方丸鞆(=通用帯)」が使える
2つ目は、
有文丸鞆は「巡方丸鞆(=通用帯)」程度のものなので、普通に使っ
てもOK
ということなのかが不明瞭。
こういうところが解釈に苦しくてドツボにはまる。当時は自明だったかもしれないが…。
まとめ
平安朝の石帯の基本的なルールとしては
●公卿の場合
有文白玉巡方帯
●非参議の四位・五位
瑪瑙丸鞆帯
●石帯本体の形状
現在のベルトの様な形状。
まだ2つに分割されていない。
●通用帯はまだ開発されていない(?)
となるので「光る君へ」でほぼ全官人が着用している「白玉の巡方丸鞆の通用帯」は時代考証的には会わないかもしれない
が、
予算の都合などで手が回らなかった可能性もあるのでそこにこだわらず楽しもう、ということ。
史料から見た服飾史的なものと、大河ドラマというエンターテインメント的な違いは「さもありなん」、それはそれでよいんではないかな。と思う。
余談
最初にも書いた通り、石帯は「ぱっと見、みれば形状や石自体の色がわかる」が調べるとかなり不明なもの。そもそも先端部が長い理由や2つに分かれたことが記されている史料が見つからない。なので、あーだこーだと推論するしかできないのがもどかしいし、楽しいのである。
なお、私が持っている中国服飾史の本には唐時代の金・玉帯着用階級表が掲載されていて当然、当時の平安官僚たちも遣唐使や商人、帰化氏族から情報を得ていたはずなので唐制を参考にしている。だが国内では取れない物質的な制限もありそれっぽい色の石を見つけては、名前を当てはめていたのだろうと推測している。あと、どうも唐代には2つに分割されていた可能性もある。そのような図が掲載されているが、その図がどの時代を参照して作られているのかは不明。なおバイドゥで「唐制腰帯」で検索するとそれっぽいのが出てくる。
弘仁元(810)年年9月28日(乙丑)に嵯峨天皇に対して大同2年8月19日の弾正台に下された条文にある「雑石腰帯の利用禁止」をやめるように公卿が申請し、裁可されて許可されている。
この「雑石」が貴石の対義語だとしたら平城天皇が大同2年に発布した法は貴石(高価な石)で飾られた腰帯のみを使用することとされていた、ということだろう。(手元の史料を漁っても平城天皇が「大同2年8月19日の弾正台に下された条文」は見つけられないので、原文がある史料を知っていたら教えてください。)
参考資料
正倉院宝物検索
「紺玉帯 残欠」
ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター
『装束図式』
国立国会図書館デジタルコレクション
『国史大系 第3巻 新訂増補(日本後紀)』
『新校群書類従 第5巻 (公事部(二)・装束部(一))』
『大日本織物二千六百年史 上巻』
国書データベース
各種書誌情報
『有職故実大辞典』
『日本大百科全書』