Yorks Hill Fair ふたたび (自己紹介)
Yorks Hill Fairサイトは、元々このブログの共同筆者であるTとKが共に当時の留学先のUKの田舎町を紹介するサイトとして1997年に立ち上げたホームページです。
ここではYorks Hill Fairが立ち上がった経緯、そして四半世紀の時を経て今回八ヶ岳の別荘建築記として再開に至った話をアイルランド留学時代に遡って紹介しています。よろしければ読み物としてお楽しみください。
出会い
僕たちTとKは1994年に留学先のアイルランド・ダブリンで知り合った。たまたま同い年ですぐに意気投合、頻繁に会って遊ぶようになる。
今も昔も日本人は比較的少ないアイルランドではあるが、それでも留学中は僕たちなりに多くの日本人と出会った。春休み・夏休みを利用して語学学習に来ていた学生たち、大学院で勉強する方、現地で働いている方、高校留学の若者、そして将来の目標が見つからずになんとなく長めに滞在している若者たち(僕たちもどちらかというとそのたぐいではあった・・・)。
しかし今とは違いメールもインターネットもない時代、ほとんどの出会った人たちとのコンタクトはロストするなか、5年に及んだ留学という特別な刻をほぼ一緒に過ごすことになった僕たちはいまでも昔そして未来を語らうことができる。とても幸せなことだと思っている。
1994年、時代はまだアイルランドの高度経済成長期「ケルトの虎」前夜。失業率は15%と高く、街にはホームレスの方も多く見受けられ、走っている車やバスはボロボロ、全体的な雰囲気としてさほど活気がない。
学生の身分には当然娯楽も少なく、やることと言えばフィッシュ&チップスをつまみながらダーツやプールに興じ、夜はパブでアイリッシュ・ミュージックの生演奏を聴きながらギネスを飲むくらいしかなかったが、それでもこれらの思い出は僕たちの素晴らしい青春の1ページを彩っている。
ちなみに、よく入り浸ったパブは二人がそれぞれ借りていたフラットのあったラスマインズというエリアにある Rody Bolands と、中心部グラフトンストリート近くの当時通っていた学校の近くにあった Bruxelles だ。両店とも現存するのが嬉しい。是非いずれ再訪したい。
時代を進める前に、当時よく聴いていた音楽にも少し触れておこう。アイルランドに住んでいたので当然エンヤやコアーズ、クランベリーズといったアイリッシュアーティストは大好きだったが、テレビのMTVチャンネルで当時ヘビロテされてた Basket Case、Walk This World、Ironic そして Wonderwall なども僕たちのダブリン時代を象徴する楽曲だ。今でも二人が会ってアルコールが回りだすと、どちらからともなく当時の曲をかけては思い出話に花を咲かせるのだ。
渡英
当初は語学学校での語学学習、その後はDiplomaやDegreeコースが混在するダブリンのカレッジに通っていた僕たち。細かいことは忘れたけど、日本は当時バブルが崩壊し就職氷河期に突入した超不景気な時代。
とにかくもう少しステップアップすべきと考えていた僕たちは1996年、それぞれの親の理解も得つつ大学進学(Tは二年次編入)のためアイルランドからUKに渡った。Tはノース・ヨークシャー、Kはウェスト・ヨークシャーにある大学にそれぞれ進んだ。Tの専攻はツーリズム・レジャーマネジメント、Kはコンピュータ・サイエンスと一見被るところは全く無いように見えるが、それぞれの異なる興味がのちに Yorks Hill Fair (以下、YHF) を誕生させることになる。
Tの住む町はスカーバラという北海に面する小さなリゾート地だ。そう、あのサイモン&ガーファンクルの名曲「スカボロー・フェア」でも歌われている市(フェア)が開かれる町だ。高台から眺める海岸線は非常に美しく、YHFの「Fair」はまさにスカーバラの「フェア」にちなんでいる。
なお、僕らの活動名であるYHF。Yはヨークシャー(Yorks)、ヨークシャーは丘陵地帯(Hill)であることからYorks Hill Fairとなった。
ロゴ(下図)については、Tの記憶によるとKが当時フォトショップをいじっていたらこうなり、さわやかで格好良いということで採用となった。
ウェブ情報によると、スカボローフェアとは13世紀~18世紀に開催されていた、スカンジナビアやバルト諸国との貿易市だったようだ。ノースヨークシャーの州都・ヨークはヴァイキング(スカンジナビアの人々)文化の影響を残しており、ヨークシャー地方は地理的に貿易面で北欧諸国とのつながりが深かったのだろう。
ちなみに、このような田舎のリゾート地にも当時から日本人旅行者が割と多く来ていた。そう言えば当時スカーバラのローカル新聞にこんな記事が載ったことがあった。
日本人の二人組の観光客が路上で口論していたらしく、近所の人に通報され二人は警察官によって職務質問を受けたのだが、その口論になった理由がなんと『どちらがカメラを持つか』だったそうだ。
ただでさえ当時はまだ日本人はカメラで写真を撮りまくるというステレオタイプを持たれていただけに、こんな珍事が記事になって同じ日本人としてとても恥ずかしい思いをした。今では一人一台カメラ付きスマホがあるのでこんな口論に発展することもないのだろうが。
一方、Kは内陸のブラッドフォードという中規模都市に住んでいた。これといった観光資源は特になく、唯一誇れるのはカレーくらいだった。とにかくカレー屋が多く、石を投げればカレー屋に当たるほどだ。
そしてパキスタン人が作る本場カレーなのだから美味くないはずがない。どうやらこの都市、後になって知ったことだが英国で最大のパキスタン人コミュニティがある街で、近年では Curry Capital of Britain という名誉ある?称号を受けているらしい。
納得だ。それゆえ、アジア人にとってはとても居心地のよい街だったとおもう。KもTも、英国では少なからず人種差別的な言動を受けたこともあるがこの街ではそんなことは一度もなかった。
そしてKはこのカレーの匂いで満ちた街の思い出を色褪せずに残すべく、97年夏に帰省した際に当時はまだ珍しかったデジタルカメラを日本から買って持ってきていた。
たしかエプソンのカラリオCP-500というデジカメだったと思う。当時はなかなか評判が良く、夏休みで一時帰国中にアルバイトをして買ったものだった。そう、Kは今でこそ車以外のほぼ全ての興味を失った中年オッサンになってしまったが、若い頃はとにかくデジモノが大好きで、94年当時まだ日本でもほとんど普及していなかったポータルブルMDレコーダー・プレーヤーを持って渡愛したほどだ。
ちなみに、そんなKがアイルランドに着いてまず衝撃を受けたのは、当時ダブリンの人々がポータブルカセットプレーヤーを一様に手に持って街を闊歩している光景を目にした時だった。なぜ皆手に持っていたのか?それは単純にまだリモコンすら普及していなかったからだ。
そして、彼らの手にあるプラスチッキーな筐体にはキラリと光る泣く子も黙る有名なロゴ。そう、Early 90's に(一部の)世界を席巻したブランド、その名も「COBY」だった。
かくして、KとTは「わりと近所」、鉄道か車で約2時間移動すれば会える距離の街に住むことになり、アイルランドにいた頃ほどではないにせよ、引き続き頻繁に会うことになるのだった。
Yorks Hill Fair 始動
UKに来て2年目の97年秋のある週末、Tがスカーバラからいつものようにレンタカー(なぜか毎回白か赤のプリメーラMT車だった。しかもディーゼル車)でブラッドフォードに遊びに来ていた。ちなみに、遊び拠点はきまってブラッドフォードのKが大学の友人とシェアしていたフラットだった。
1年目は実はあまり記憶になく、おそらくお互い大学の寮に住んでいたからであろうが自由度が低かったこともあり2年目ほど頻繁には遊んでいなかった気がする。いや、遊んではいたが、記憶にないだけだとおもう。
話を1997年に戻すと、Tはツーリズムを専攻する大学のいよいよ最終学年に入っていた。そしてKは日本から買ってきたばかりのデジカメを活用したくてウズウズしていた。また一応コンピュータ・サイエンス専攻なので、HTMLやPerlで掲示板付きのホームページを作成するくらいのことは出来た。
そしていつものようにKの部屋でカールスバーグのパイント缶を大量に空けながら、今イングランドのヨークシャー地方にいる自分たちにできるユニークなアクションは何かないかと夜な夜な話をしている時に出てきたアイデア。
それは日本人に馴染みの薄いヨークシャー地方の見どころを、当時は鉄板旅行ガイドとして誰もが旅先に持って行ったであろう「地球の歩き方」にはない粒度で発信する、そして留学を考えている人が気軽に相談できる掲示板を立ち上げることだった。二人のパッションが融合した瞬間だった。ここまで至るのにいったい何本のカールスバーグ缶を空けたことか...
早速、まずは手近なところでブラッドフォードから北西に車で30分ほど走ったところにあるハワースを訪れることにした。ハワースと言えば、小説『嵐が丘』の作者として知られるエミリー・ブロンテの故郷。その彼女の感性を育てた雄大なモアー(荒野)をハワースの町とともにレポートすることから着手した。
KもTも特段英文学に興味があったわけではなく、実際嵐が丘は読んだがあまり印象がない・・・。どちらかというとお姉さんのシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」のほうが19世紀の小説にしてはわりと共感できる内容で面白かったようにおもう。また、ブロンテ姉妹の三女・アンは当時旅先のスカーバラで没したとかで、スカーバラ城に上る途中にある教会にお墓がある。
現地に着くとすぐにツーリストインフォメーションで細かい情報を拾い、ブロンテ姉妹の生家・ブロンテ博物館などの観光スポットを訪問、そして「嵐が丘」の地理的モデルとなった Top Withens (下記タイトル画像の場所)まで往復12Kmのトレイルを敢行して見どころをまとめ上げた。
実は、ハワースを訪れたこの日は英国としてはとても珍しい雲一つない晴天。10月ともなると肌寒い日が多いためこの日も「暑さ対策」などまったくしておらず12キロも歩くというのに水も持たずに出発・・・。途中で何とか見つけたパブで飲んだビールは最高だったぁ・・。
そしてハワースを皮切りに、スカーバラ、ヨークシャーデールズ、ヨークなどヨークシャー地方の見どころを1ヶ月に1レポートの頻度で発信していった。またTの卒論のデータ収集の一環として当時の日本人の英国に対する意識調査を行うWebアンケートや、ノーリッジにある語学学校とのタイアップ記事を掲載するなど精力的に活動していたのだが、とうとう98年7月にTが大学を卒業して日本へ帰国することになり、それを機にYHFの活動も大幅に縮小することになる。
その後もTは東京、Kはブラッドフォードからリモートでウィーンやアウシュビッツなどいくつかヨークシャー以外の観光地を追加するなど細々と活動していたのだが、99年のKの帰国を経てお互い仕事や私生活で多忙となり、とうとう2001年にUKで契約していたWebホスティングサービスを解約し、僕たちのYHFの活動に休止符を打ったのだった。
YHFを振り返って
97年からわずか4年で閉じたYHFサイトだったが、じつに実りの多い活動だった。活動初期はまだまだインターネット黎明期と言っても過言ではなく、グーグル検索サービスはまだ存在せず、ヤフーもディレクトリ検索といってホームページ所有者がヤフーに特定のカテゴリへの掲載依頼を自発的に行い、認可されて初めて検索対象となるという、まるでインターネット界の石器時代のようだった。
そんな中、英国と言ってもロンドンではなく、ヨークシャー地方の田舎の観光地情報を、しかも日本語で案内しているサイトは大変珍しかったはずであり、それに加えて留学を希望する同世代の若者が気軽に質問できる掲示板は常に活気があった。
当時の掲示板に寄せらられたコメントをいくつか紹介しておきたい。
このような声援は、「地球の歩き方に載っていない情報を発信する」をモットーに活動していた僕たちにはとても励みになった。また、時としてサイトの訪問者同士でのコミュニケーションも発生していた。まだ「2ちゃんねる」もなかった時代である。
これらの投稿からかれこれ25年になる。当時YHFを見てくれた訪問者の方々も、今では僕たちと同じく中年のおじさんやおばさんになっていることだろう。短い期間ではあったが、僕たちのYHFの活動が少しでも人のためになったかと思うと感慨深い。
そして時は流れ...
2020年に始まったコ ロナ禍。Tは東京、Kはシンガポールでそれぞれ暮らしているなか、いわゆる「Zoom飲み会」をちょくちょく行うようになり、むしろお互いが東京で暮らしていたときよりも顔を合わせる機会が増え、飲みながら画面の前で留学時代の思い出話や人生観について語り合い、毎度大いに盛り上がったのだった。
「将来は田舎で暮らしたい」
Zoomで話しているうちに二人とも同様の考えを持っていることに気づく。Tは特に深くは考えていなかったが、生まれ故郷である岐阜市、はたまた東京での職場にも通えそうな埼玉県秩父市とかなら住んでも良いかなと漠然と想像してはいた。
一方、Kは甲信越地方(とくに長野県)に山小屋を建ててゆくゆくは定住したいと考えており、湿度が低く晴天率の高い八ヶ岳西南麓を考えていた(この時点でKは一度も八ヶ岳に行ったことがないのに、である)
こうして、すっかり中年のオジサンになった僕たちは、Zoom飲み会でお互いの人生後半戦の共通のビジョンを認識したことで再度意気投合し、2022年「八ヶ岳基地プロジェクト」を始動することにしたのだった。
プロジェクトコード名はもちろんYHF、それはTとKの共同プロジェクトの発祥であり、たくさんの思い出が詰まったとてもセンチメンタルなパーソナルブランド。
このブランドを復活させ、プロジェクトを遂行することを誓ったのであった。