荘子と相対主義
一般的に荘子は相対主義者であるとされますが、実際はもっと複雑な立場をとっているように思います。ここでは徐無鬼篇にある恵施との問答をとりあげて、荘子の相対主義についての考えを論じてみたいと思います。長くなりますが引用します。
「荘子曰く、射る者、あらかじめ期するにあらずしてあたる、これを善射といわば天下皆羿なり。可ならんかと。恵子曰く、可なりと。天下に公是あるにあらざるなり。しかしておのおのその是とするところを是とすれば、天下皆堯なり。可ならんかと。恵子曰く。可なりと。荘子曰く、しからばすなわち儒・墨・楊・?の四、夫子と五となる。果たして何か是なるや。あるいは魯遽のごとき者か。その弟子曰く、われ夫子の道を得たり。われ能く冬に鼎を焚きて夏に氷を造ると。魯遽曰く、これただ陽を持って陽を招き、陰を持って陰を招くのみ。吾がいわゆる道にあらざるなり。吾れ子に吾が道を示さんと。ここにおいてこれがために瑟を調え、一を堂に置き、宮を鼓すれば宮動き、角を鼓すれば角動く。音律同じきかな。あるいは一弦を改調して、五音において当たらなからしむるや、これを鼓して二十五弦皆動く。未だ始めより声に異ならざるも、音の君たればのみ。ほとんどかくのごときものかと」(岩波文庫の荘子第三冊の読み下し文を一部漢字を訓読みに変えて読みやすくしました。)
「羿」は中国の伝説上の弓矢の名人、「堯」は伝説上の名君、「魯遽」は魔法使いであったようです。「儒・墨・楊・?の四、夫子と五となる」は当時存在した学派のことです。?は判読が困難な部分です。
荘子の相対主義批判
さて、引用箇所の最初のパッセージは明らかに相対主義批判です。どの人の考えもその人の見方に立てばそれなりに正しいとしましょう。すると全ての人がそれぞれが「是」とすることが(その人なりの意味では)「是」となり、全ての人が(その人なりに)偉大な名君である、ということになるでしょう。
荘子はこのような考えを、判断することを弓を射ることに例えて批判します。誰かが何も狙わずに矢を射て、たまたま何か(例えばりんご)に当てたとしましょう。もしこれを「上手にりんごに当てた」と表現するならば誰もが弓の名手になるといいます。しかし、もしそうなら「上手に当てる」という表現自体がポイントをなくすでしょう。同じように、誰かがとりあえず何かを判断して、それをすべて「正しく判断した」と言えてしまえば、「判断する」という行為に意味がなくなるでしょう。相対主義に立つと、「判断する」という行為に意味がなくなってしまうのです。
合意形成の術としての議論
では諸学派が論争を続け、決着がついたりつかなかったりするときには何が起きているのでしょうか。荘子はこれを魯遽の例え話で論じます。
「冬に鼎を焚きて夏に氷を造る」魯遽の弟子は、誰もが反対していることに賛成し、誰もが賛成していることに反対するソフィストのことでしょう。ソフィストについて、魯遽は「これただ陽を持って陽を招き、陰を持って陰を招くのみ」、つまり賛成の論拠を集めて賛成し、反対の論拠を集めて反対しているだけである、と評価します。これにたいして、魯遽の「道」は音楽理論を応用した共鳴現象のようです。議論とは、「音律」が同じもの同士を共鳴させ(学派を形成し)「音の君」を作り出してすべての人の同意を得る術だと言おうとしているのだと思います。
真理の存在
「真理が存在するか」という問題は「真理の存在」をどう定義するかという問題を含んでいます。なので、「真理が存在するとすればそれはどのような性格のものか」という問題でもあります。
この問題に関する荘子の考えは3つにまとめられると思います。ひとつ目は上で論じたようになんでも真ではない、という考えです。二つ目は判断を行い、同意を取り付けようとし、合意を形成する「道」(方法)が存在する、という考えです。最後に、人々が議論によって合意を形成したりしなかったりするのは自然現象である(にすぎない)という考えです。
最後のポイントは少し説明が必要だと思います。世の中を観察すれば、人々が議論して同意しなかったりしたりすることは明らかです。また、同意や不同意に一定の法則性があるでしょう。また同意した結果が間違っていれば不利益が生じたりするでしょう。例えば一定の臨床試験で確認されたワクチンの有効性に専門家は同意するが、反ワクチン論者はどんな論拠を示しても言を左右して認めようとしない、といった法則性があるかもしれません。また、社会が反ワクチン論者に同意すれば、その結果として病気が蔓延する、といったことがあるでしょう。この場合、「臨床試験はワクチンの有効性を確立する」が真である、ということになります。そして、この真理に(病気を蔓延させたくないのならば)同意すべきだ、という規範も導くことができます。
しかし、これは事実を並べただけです。荘子は「Xは真である」、「Xに同意する」、「Xに同意するべきだ」はすべて事実の記述に過ぎないと考えているように思います。個別の事実に還元できない「正しさ」というものを荘子は認めないと思いますし、同意する・しないというのは現実にいる人間がそうする、という以上の意味はない、と考えているように思います。もし、死んだ方が幸せだ、と考えているドクロ(髑髏問答)のような人にとっては、(例えば)ワクチンの有効性の真理性は関係ないことです。そういう意味で、超越論的(我々の認識の可能性をそもそも担保してくれるような)真理というものの存在を荘子は認めないと思います。
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