黄昏エッセイ うちの父の話でも
イラストレーター・漫画家のyoritomoです。
父の四十九日も過ぎ、初盆を迎える今の時期。
まぁ
うちの父の話でも。
「お父さん」と呼んでた存在の人
仕事で不在が多かったが、子供の頃よく遊んでくれた良い父だった。
大人になった頃の方が厳しかったように思う。真面目で努力家ゆえ。
小さい頃、父にこう訊ねたことがある。
「お父さんは、会社で何してるのー?」
「えー?そりゃ、会社で書類書いたりナンダリしてるよ」
なぜごまかした?かは不明だが
うちの父は、カメラマンとして某テレビ局を出入りしていた。
どことなくドキッとした感じで、答えた。
謎だ。…
「写真を撮ったり、テレビでカメラ回したりもするよ〜」
でわかるのに。(子供で分からんと思ったのか)
戦中世代で、とにかく戦後爆裂に働き倒した父。
戦後の日本を作り上げた人たちの1人だ。
「会社員ではあるけど…」会社では疲れ切って
死んだように倒れていたりしていたのかもしれない。
母曰く、あの頃のテレビ局は
「出たり入ったり忙しい課で、花形だったからね〜」
今で言うとこの動画関連の会社みたいな?
父、黄昏てから
昨夏、父が脱水症状で倒れた。
入院してから、集まる家族たちは、こぞって父の話で盛り上がった。
父が倒れた時、
「またあそこへいこうね」(あそこ:育った町)
それは叶わず。ベッドに入って、そのまま最期を迎えた。
よく使ったタクシーの運転手さんが
「全然いけますよ!言ってくださいね!」と声かけてくれたが、約束は守れなかった。
すごく、申し訳なかった。…
仕事を頑張れという父を忘れない
「お父さん」と呼んでたその人は、1クリエイターだった。
戦後、何もない都心で父は家計を支えるために
写真の現像屋でアルバイトをし、カメラマンを目指した。
カメラの話であれば、とにかく延々話していたので、おそらく「好き」を仕事にできた人だ。
ひたすら仕事に打ち込み、若い頃からいくつか手術もした。それでも頑張れたのは、その仕事が「好き」だったからだ。
そうじゃなければ、そこまで頑張れない。
父が黄昏てから、
家は「仕事場」家族は「同僚」と間違えるようになったのも、父らしい。「仕事か、じゃぁ頑張れ!」
いつも帰り際、言われた言葉だ。
お見舞いの行き帰り、いつも考えた。
“クリエイターとして、同じクリエイターを看取る。
私もそこまで打ち込める仕事として、燃え尽きれるだろうか?…”
父は、幸せだったろうか?
…
答えてくれんが
幸せだったと、感じている。
「父を、忘れないでくださいね。」
葬儀の時に、母がこう締めた。
分かってる。
父のことは、忘れない。
ちゃんと。覚えておきたい。
もう、ほんと
うざいほど伝えたけど、
多くの感謝を込めて。ありがとう。
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