『私が』『私の』の思いをなくす とは
自分を客観的に 見守る
・・・・・・・・・・・・
今朝の入浴中
『私が』『私の』を
『私は』で始まる文章に
変換することが ひらめく
私が好きなもの
↓
私は好きだと感じている
私の夫
↓
私は夫がいます
『私は』で 文章を変換してみると
『私が』『私の』は
所有者意識があるように
感じた。
・・・・・・・・・・・・・
前日、私は
書類等の整理で
掃除をした。
ヨーガ教室でもらった
印刷されたコピー用紙が出てきた
「第5講義:2章(5)サーキヤ・ヨーガ」
と記載されており
『私が』『私の』
と言う言葉が 目に止まった。
その言葉は 最近
気になっていた 言葉 だった。
ヨーガ関連のクリアケースに
収納した。
翌朝、入浴後に
改めて 用紙を見た
鉛筆で「2014.8.6」と
記入があった
月日がたったことを感じた
-------------------------------------------
71節
すべての欲望を捨てて
執着することがなく、
『私が』『私の』という
思いもなく行為する者は、
誰でもが
寂静(シャンティ)の境地に
達するのだ。
-------------------------------------------
と記載されてあった。
『寂静』とは何かと
検索してみると
じゃくじょう
1.ひっそりして静かなこと
2.煩悩(ぼんのう)を離れ
苦しみを絶った解脱(げだつ)の境地。
涅槃(ねはん)。
と記載されていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
『私が』『私の』を
『私は』で始まる文書に
意識的に変換してみることで
所有者意識から離れ
寂静な自分に
近づけるのかもしれないと
感じた
ふと
『私がやりたいことはなんだろう』
と言葉が出てきたので
『私は何がやりたいんだろう』
と変換してみた
客観的に
自分を見守る
静かな気持ちになった
作品
『客観的に自分を見守る』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?