01|14時は藍色
〈色には意味があると思ってた〉
小学生低学年まで、事象には色があると感じていた。今も思い出すことができるのは「土曜日は白色」「14時は藍色」の2つ。
それだけをなぜ覚えているかは分からない。頭の中に置き忘れたようにただそこにある記憶だ。
当時は、時計盤の数字や曜日、天気やグーチョキパーにもそれを示す色があった。
ジャンケンでグーを出すと、目のずっと奥の方で瞬間的に色が滲んで見えるという具合。
私にとってそれは自然な現象だったため、誰に話すでもなくそのまま大人になった。大人になるにつれ色は次第に見えなくなった。
〈記憶の辿りかた〉
「記憶の整理について、頭の中でどのようになっているか」という話になった時のこと。彼は巨大なデータサーバがあるという。
私は小学1年の記憶を3つ連続して思い出そうとしてみた。遠近感のない真っ白な空間に色のついた靄が出る。靄がなくならないうちにその中に入ると、似たような色にまつわる記憶が見える。
水色の靄の中には、遠足の日の空、好きだった男の子の筆箱、いとこの家の風呂桶、夢に見た自動車。
私の記憶の在り方は、色別に整理されていた。
今でも時々〇〇色だと認識した瞬間、突風にはじかれたように思い出すことがあるし、その時はほんの数秒ではあるけど、目の前にいる人のことも忘れて、自分の意思の外で体が勝手に色を見ようとする。
意識を深めると当時の会話や温度も思い出せる時がある。
〈思考に直結するスイッチ〉
色でセグメントされるせいか既視感も多い。初めての場所でも知っているような錯覚を起こす。現実、夢を問わずに。
そのせいか20代の頃に比べ、生活における色が煩わしくなり最近は着る物や内装に用いる色をどんどん減らす傾向にある。色の記憶が増えるほど、色に囲まれた環境が息苦しい。溜まった澱を吐き出すようにモノトーンだった作品は色数を増やしている。
先日、初対面の方が青いセーターを着ていた。「青い人だと覚えてくだされば」と雑談の中で発した一言にとらわれて、その人の記憶は青い靄の中にしまわれた。また青い服を着て会えればいいのだけど。