刑事物小説サンプル「True blue」

世界五分前仮説、というものをふと思い出した。
「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説は、世界が5分前にそっくりそのままの形で、全てが非現実の過去を「覚えている」状態で突然出現したというものだ。この仮説を否定することは不可能なのだと言い、誰もいない高校の図書室で、自分とは何かと必死に考えていた友人の姿を思い出し、神崎ケイトは密かに、それが本当であればいいのにと思った。
仮に世界が今から5分前に現れたのだとしたら。今までの記憶が嘘なのだとしたら。
ケイトと、この哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつと一生懸命向き合っていた、幼馴染の涼太郎との間に起こった、あの忌まわしいことの全てが無かったことになるのだ。
嘘でいいと思った。世界のすべてが嘘でも、ケイトは自分の中にあるこの思いだけは疑いようのない事実だとわかっているからだ。
あぁ、でも、とケイトはぼんやりと考える。
全てが嘘なのだとしたら、全てが神が植え付けた嘘の記憶なのだとしたら。自分たちに悲しい運命を纏わせ創り出した神を、どうにかして殴り飛ばしてやりたいとケイトは思った。

耳馴染みのある機械音が鳴っている。
鳴っていると気がついたのはだいぶ前だが、耳に馴染み過ぎてその音が電話の着信音だと脳が自覚するまでにえらく時間がかかった。布団から腕を伸ばし、音源であるスマホを手に取りディスプレイを見れば、これまた見慣れた名前が表示されていた。涼太郎からの着信だ。布団にくるまりながら電話に出ると、いつものように「おはようございますケイト」と快活な声が耳に届いた。
涼太郎の声を聴きながら時計を見れば、時刻は午前8時を過ぎたあたりだ。まだ朝の寒さが残る今の時期は、簡単に布団からは出られない。カーテンの隙間から朝日が入り込み部屋に柔らかな光が差し込んでいる。久々の休暇で惰眠を貪ろうと思っていたケイトは出鼻をくじかれた気分になった。今日は何も無いはずなのになんだろうな、とケイトはあくびを噛み殺しながら「おはよう」と涼太郎に言った。

『まだ寝ていたんですか?もう8時を過ぎていますよ』
「今日俺は非番なんだ。別に何時まで寝ててもいいだろ」
『僕、事件があったらしくて今現場に向かっている途中なんです』
「おい、ちゃんと聞いていたか?俺は今日非番なんだよ。事件なら明日話を聞くよ」
『20代くらいの女性で腹部に刺し傷があるとのことで』
「涼太郎。俺は10日ぶりの何もない休みを満喫する予定なんだ。いいな?切るぞ」
『尾神さんから現場を見た方がいいってお誘いがあったんですよね』

まだ覚醒しきれない意識の中、布団の中でもぞもぞと足を延ばしながら涼太郎をあしらっていたはずなのに、不意に出た尾神の名前にケイトはパッと目が冴えた。
警視庁刑事部内にある特命係に籍を置く、ケイトと涼太郎の直属の上司は大秦寺だ。その大秦寺と旧知の仲であり、またケイトのことも昔からよく知っている尾神はケイトたちとは違い、組織犯罪を主に扱う組織犯罪対策課の人間だ。ケイトや涼太郎は特殊な捜査員ではあるが、直属の部下でもない涼太郎を呼ぶあたり、きっと無意味に呼んでいるわけではないのだろう。涼太郎は淡々とそれだけを言うと、ケイトの返事も待たずに『それでは大切な休暇中失礼しました』とやや事務的に言った。

『どうぞごゆっく』
「涼太郎」

涼太郎が言い終わる前に、ケイトは名前を呼んで言葉を遮った。身体を起こし、窓のそばに行って外に目を向ければ、そこには青空が広がっていた。

「昼飯、何にするか考えといてくれ」
『おや?十日ぶりの休みはいいんですか?』

クスクスと笑いながらそう言ってくる涼太郎に、ケイトは「煩い」と舌打ちをした。涼太郎にしてやられた感があるが仕方ない。ケイトは電話を切って布団から抜け出し、乱れた髪をかき上げながら洗面所へと向かった。

いつものようにYシャツにジャケットを羽織り、ケイトは涼太郎に聞いた現場へと向かった。聞かされた場所に着くと、そこではすでに大勢の警官が現場を仕切っていた。そこは中層階建ての古びたビルで、事件があったのはその2階に位置する部屋だという。ケイトは警察手帳を提示し、KEEP OUTと書かれた黄色いバリケードテープをくぐって中へと入った。何かの事務所のような部屋の中で涼太郎を見つけ、声をかけると「早かったですね」と笑った。ノーネクタイのラフな格好のケイトとは対照的に、涼太郎は濃紺のスリーピーススーツをきっちりと着ている。シンプルなデザインだが素朴な見た目をしている涼太郎にはよく似合っていた。そして柔らかな見た目とは違ってスーツの下は筋肉質なのをケイトは知っている。性格は至って穏やかなのに妙なところで刑事らしいのが涼太郎だ。
涼太郎がケイトに白手袋を渡すと、ケイトは慣れた手つきで手袋をはめ、既にブルーシートをかけられている遺体の前に座った。両手を合わせ黙祷した後、ブルーシートをめくるとそこには腹部に大きな傷を負った女性がいた。場所に似合わずやけに派手な恰好をした遺体に一通り目を滑らせ、気になるところがないか確認する。

「他殺?」
「鑑識によりますと、腹部左側に刃渡り20cm程の刃物が刺さっていたそうです。一課の方々は他殺と断定しているようですが、遺体があった現場を見ると何かの儀式に見えなくもないので、もしかしたら自殺の可能性もあるかもしれませんね」

涼太郎の言葉にケイトはふうん、と返事を返す。涼太郎がそう言うのであれば、そうなのであろう。ケイトが遺体から目を離そうとしたとき、ふと胸元に黒いものが目に入った。なんだろうかと衣服をずらすと、そこには黒い竜をかたどった刺青が彫られていた。どくんと心臓が大きく跳ねた。ケイトは一瞬呼吸をすることを忘れ、食い入るようにその刺青を見つめる。それは、ケイトがずっと探している“ある男”の胸に彫られていたものと同じものだった。
ケイトが黙ったまま動かないことを不思議に思った涼太郎が、ケイトの名前を呼ぶ。何か気になるところでも?と尋ねてくる涼太郎の声に弾かれ、ケイトは忘れていた呼吸を再開させた。

「涼太郎、これ、あの刺青だ」

ケイトの声に、涼太郎も大きく目を見開く。涼太郎はゆっくりとケイトの傍に寄ると、ケイトの視線の先に目を移した。見覚えのあるそれに、涼太郎の息が詰まったのをケイトは感じた。

「気づかなかったのか?」
「僕、現場を先に見ていてご遺体を拝見するのはまだだったんです。なぜ、この女性がこの刺青を…」
「さぁな。でも偶然同じデザインってことはないだろ」

ケイトの言葉に、涼太郎は身体をびくりと震わせた。偶然でなければ必然。この女性が、ケイトや涼太郎の探している人物に通じている可能性があるのだ。ケイトはブルーシートを元に戻して立ち上がり、成程、と首を揉んだ。尾神がわざわざケイトと涼太郎を呼んだ理由はこれだったのだ。昔からケイトのことをよく知る尾神は、この刺青に気づき、過去の事件と何らかの関わりがあると踏んだのだろう。事情を知る人間がいると有難いなとケイトが思っていると、あることに気が付く。

「そう言えば、なんで尾神さんが?」

遺体の前で険しい顔をしたまま固まっている涼太郎に、ケイトはなぜ尾神が殺人現場にいたのかを訪ねた。組対課の課長である尾神が殺害現場に来ることはあまりない。しかも担当しているのは組織犯罪における銃器・薬物の取り締まりだ。それなのになぜ現場にいてケイトたちを呼んだのか。ケイトの声にハッとした涼太郎は、気を取り直して遺体のあった場所に視線をやった。

「もともとこちらは暴力団の下部組織の事務所のようで、尾神さんたちがガサ入れにはいって薬物所持の現行犯で捕まえる予定だったみたいなんです。それで現場を抑えて薬物の押収をしていたらあちらの部屋に遺体があったと」
「そっか。それで?尾神さんは?」
「捜査の主導権確保のため本庁に戻られました。一課に取られないよう上に掛け合うのでしょう。僕らは関係ないですけど、尾神さんは自由には動けませんからね」
「成程」

ケイトは現場をぐるりと見渡した。確かに見慣れた捜査一課の捜査員と、殺人現場にはあまり居合わせない組対課の人間がいる。捜査のための主導権争いはすでに始まっているんだなと思うが、ケイトにとってはどうでもいいことだった。
ケイトと涼太郎が所属する特命係はSpecial Ability Investigator、通称S.A.Iと呼ばれる捜査員の集まりだ。年齢や階級、所属に関係なく能力重視で集められた特別な捜査員で、階級も年齢や勤務年数に関係なく上の階級が与えられる。特別な捜査権限も与えられどんな事件にも部署に関係なく関わることが出来る。今は大秦寺が責任者ではあるが、このチームをはじめに作り上げたのは涼太郎の元養父である長嶺謙信だ。能力あるものが事件解決に幅広く関われるようにと立ち上げ、今でも立派に機能している。涼太郎はそれがとても喜ばしく、またそのチームの一員に選ばれた自分を誇らしく思っていることをケイトは知っている。
だからケイトや涼太郎はどんな事件にも好きに関わって構わないのだが、それを疎ましく思う連中も多い。縄張り意識が強く、成果主義の刑事課の人間たちに、みんなで仲良く協力しましょうと言う意識は少ない。応援に呼ばれて出向いた事件でも邪険に扱われることの方が多いのが現状だった。

ケイトは遺体のあった場所へ涼太郎と向かい、遺体が倒れていた状況を把握する。
涼太郎の話によると、遺体は両足を綺麗にそろえ、両手を真っすぐに横に広げたまま腹部を刺されていたらしい。確かに死体にしてはいささか不自然な死に方だ。涼太郎が儀式にも見えなくないと言った理由もわかる。ケイトは大方を調べ終わったあと、涼太郎と共に本庁へと向かった。

「ケイト、冷静になってくださいね」

本庁へ戻り、自分たちのデスクに向かっていると涼太郎がふいにケイトに向かってそう言った。ケイトはあたりまえだと「わかってるよ」と返事をするが、自分でも興奮していることが分かっていた。警視庁に入庁してからもなかなか掴めなかった手掛かりに、興奮するなと言う方が無理な話だ。涼太郎もそれがわかっているから釘をさしてきたのだろう。ケイトと涼太郎は長い付き合いだ。互いの性格は熟知している。だからこそ涼太郎は何度も釘をさしてくるのだ。
本当なら、事件を一番に追いたいのは涼太郎のはずだと、ケイトは廊下を歩きながら思う。けれど組織を重んじ、指揮系統から逸脱した行動をとることを嫌う涼太郎は、自らの意思で勝手に動くことはない。組織人であることを大切にしている涼太郎にとって、ここにいることはいいことなのか、枷になっているのか。そんなことはケイトにはわからないが、それならばとケイトは息を大きく吸った。俺が涼太郎の代わりに動けばいいのだと、黙ってケイトの横を歩く涼太郎の横顔を見た。

初めてであった時から変わらず、綺麗な横顔だとケイトは思った。
学生時代、涼太郎は鬱屈していたケイトの中に無遠慮に踏み込み、閉ざしていた心の壁を取り払うどころか破壊していった上、子どものような純粋さでケイトの心をひきつけた。純真無垢、清廉潔白。そんな言葉がよく似合う、誰よりも真っすぐで、どこか世間知らずな涼太郎にケイトは魅了された。ケイトにとって世の中暗いことばかりじゃないとか、これからの未来が明るいんだと思えるようになったのは涼太郎のおかげだった。ケイトにとって、今も昔も涼太郎は大切な友人だった。けれど、涼太郎のことを死ぬまで大切にしようと思っていたケイトの気持ちが、いつの間にか変化していることも気づいている。

「まずはこの事件を解決することが先決だ」

ケイトが涼太郎を安心させるように笑うと、涼太郎は「そうですね」と小さく口角を上げた。
ケイトは、時折溢れそうになる涼太郎への気持ちに蓋をしていた。7年前のあの忌まわしい事件が解決するまでは、決して開けないと決めている。元より開けることは許されないのだとケイトは思っていた。そもそもケイトは自分が涼太郎の横にいるべきではないとも思っているのに、涼太郎の弱味に付けこんで、今までだらだらと関係を続けている自分をズルいとさえ感じていた。そしてきっと、蓋を開けてしまえばケイトは涼太郎を喰いつぶしてしまうだろう。ケイトは幼馴染のスマートな佇まいを思い出し、あんな風に涼太郎を愛せたらどんなにいいだろうかとため息を吐いた。

自分たちのオフィスに戻り、待機している大秦寺に今回の事件に携わることを伝える。人見知りの大秦寺は視線を遮るために手を目元にかざして「わかった」とだけ言う。基本的にこのチームは指揮系統が働いていない。大雑把に言えば応援人員なため、大秦寺は基本どこで、誰が何をしているかを把握しているだけだ。責任は私がとるから好きにしろ、と言うのが大秦寺の唯一の指示だった。

ケイトと涼太郎は鑑識を回り、情報を集めて整理していく。
遺体の所持していたものから身元を知り、勤めていた仕事場がわかるとまずはそこへ向かう。遺体となっていた彼女は町中のビルの一階にある、児童書を扱う小さな本屋に勤めていた。店にいた中年の店主に事情を話すと「さっきも刑事さんがいっぱい来たんだけどね」とあからさまに嫌な顔をした。店の奥で話を聞き、怨恨の線や最近の様子を伺う。これと言って変わった様子はなかったという店主の言葉に、ケイトはとりあえず嘘は感じられないなと思った。

「彼女の胸元には黒い竜の刺青がありました。あれについて、何かご存知のことはありますか?」
「刺青ねぇ…そんなところ見もしないから彫ってある事も知らないよ」

終始面倒臭そうに話す店主の男は、ケイト達を早く追い出そうとしているようだった。店を出て、歩きながらケイトと涼太郎は先ほどの話を整理していく。店主の言葉に嘘はなさそうだがケイトにはどうにも気になることがあった。

「あの店、ただの本屋じゃないのかもな」
「えぇ。店場所は本屋にしてはとても分かりづらい。お世辞にも繁盛してるとは言い難い経営状態なのに、店主の方が身につけているものは高価なものばかりでした。他に副業はしていないと言っていましたが嘘でしょうね」
「涼太郎、あの店のデスクに貼ってあった付箋には気づいたか?」
「日付の横に本の名前が書かれてあったやつですよね。あれは、何なのでしょうか」

ケイトが話を聞いている間、涼太郎は店主の事務机に貼られている付箋に違和感を感じていた。メモのように日付と本の名前が書かれている。本の入荷か、注文のメモだろうかとも思ったが、書かれている本の名前が白雪姫、シンデレラ、親指姫など特定の本が何度も書かれている。今時、と言っては何だが、このごく有名な物語を短期間の間に何人も注文したり特別に買っていくことは稀だろうと思っていた。だとしたら、何かの暗号なのか。
そんなことを二人で話していると、ケイトは不意に足を止め何かを考え始める。「どうかしましたか?」と涼太郎が問うと、ケイトは柔らかく笑って「いや」と答えた。

「俺、これからちょっと用事があったんだった。悪いが今日はこれで帰るよ」
「え?あ、ちょっと!ケイト!」
「もともと非番だったんだ。別にいいだろ」

そう言って、ケイトは涼太郎に後ろ手でひらひらと手を振り街中の喧騒に紛れていく。夕暮れ時の街は人が多くなって、あっという間にケイトの姿は見えなくなってしまう。なんでもないとケイトは言ったが、ケイトはいつも自分の中になんでも抱え込んでしまうことを涼太郎は知っている。特に、今回の事件にはあの黒竜の刺青が関わっている。涼太郎はケイト様子に不安を覚え、胸のあたりをぎゅっと握りしめた。このなんとも言い難い不安が杞憂ならいいと、涼太郎は重い足を動かした。

涼太郎は本庁に戻る前に、馴染みの本屋に寄った。
先程伺った店とは違い、明るく好奇心を刺激されるこの店は店自体がファンタジックだ。まだ店が閉まっている時間ではないことを確認して、涼太郎は店のドアを開けた。
ちりん、とドアベルが鳴り入店を知らせる。いつも店主の座っているあたりを見ると、見慣れた帽子をかぶって執筆台に向かっている足利斗真の姿が見えた。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ…あぁ、涼太郎。いらっしゃい」
「すみません、原稿中でしたか?お邪魔でしたらまた今度に…」
「涼太郎がじゃまなわけないじゃない。来てくれて嬉しいよ。あれ?今日はひとり?ケイトは?」
「ケイトは、何か用事があるそうで。今日は僕だけです」
「そっか。さ、早く中に入って!お茶を煎れてくるから」

斗真はこの店の店主であり、小説も書いている。斗真に促され、来慣れた店内に歩みを進める。一見すると雑多な店内は、よく見るときちんとカテゴライズされている不思議な店内だ。静かな店内に、先程まで不安に包まれていた涼太郎の心がほぐれていく。横に置かれた長椅子に腰を下ろす。座った位置から見える店内は、夕日の色合いに染まってよく映えていた。

「何かあったって顔してるね」

柔らかな笑顔を浮かべ、斗真は店の奥から二人分のティーカップとお菓子を持って出てきた。涼太郎の座る長椅子とは別のテーブルに置くと、斗真は涼太郎の横に腰かける。
夕日に照らされた斗真の顔がとてもきれいで、涼太郎は思わず見入ってしまう。ケイトも整った顔をしているが、斗真も精巧につくられた人形のように整っていると思った。涼太郎を見つめていた斗真がクスリと笑うと、ハッと我に返り涼太郎は視線を逸らす。クスクスと笑う斗真に涼太郎は恥ずかしさを覚え、何をしているんだと咳ばらいをした。

「そんなに見つめられたら穴が開いちゃうよ」
「す、すみません。ちょっと、ぼぉっとしてて…」
「ぼうってできるならよかった。ここにいるときくらい色々忘れて欲しいって思ってたから」

ね、と笑う斗真を、本当に優しいひとだと感じた。
ケイトに連れられ紹介されてから、時折こうして遊びに来ては話をしたり、息抜きをさせてもらっている。仕事上、守秘義務があるため斗真に事件の相談をしたり、不満を言うことはない。けれど、そんな仕事とは全く別世界の友人を、涼太郎はとても居心地がいいと感じていた。
斗真の言う通り、ここにいるときは仕事のことは忘れられる。現世ではない、どこか異世界に迷い込んだような、そんな気分にさせてくれる店内と、ここには全てを受け止め包み込んでくれるような、そんな柔らかな空気と優しい笑顔の斗真がいる。斗真の言う通り、この店を特別な癒しの空間だと涼太郎は感じていた。
斗真が涼太郎と腕が触れるほどの距離に座ったので、自然と斗真の体温を感じる。それがまた心地よく、ざわついた心を落ち着かせていった。

「事件が、あったんです」
「そっか。大変だったね」
「なんだか嫌な予感がして、怖いんです」
「うん?」
「事件を追ううちに、ケイトがどこかに行ってしまいそうな気がしてしまって…。解決したいって心から思っているのに、解決してしまったら、今度はケイトを無くしてしまいそうな気がして、怖くて、仕方がないんです…」

涼太郎は、怖くて、怖くて仕方がないと、初めて不安を口にした。
涼太郎の中に納めておくことが出来ないほどに膨れ上がった不安を、ついに斗真にぶつけてしまった。こんな弱い自分を晒したいわけじゃないのに、もっと強くあらねばならないと思うのに、どうしようもない不安を口にせずにはいられなかった。斗真の纏う柔らかな空気がそうさせるのだろうか。まるで、夢見が悪くて怖いのだと母親にすがる子どもに似ている。
7年前の事件のことで、ケイトが酷く責任を感じていることを涼太郎は気づいていた。涼太郎は、ケイトが自分のために事件を解決するのだと必死になっている姿が嬉しくもあり、責任を果たしてしまった後のことを考えると怖かった。責任を果たしてしまったケイトは、自分から離れて行ってしまうのではないか。涼太郎にとって、家族も同然のケイトはかけがえのない存在だ。ケイトを事件から解放してやりたいと思う反面、ケイトが離れて行ってしまうことに恐怖を感じてしまう。両手をぎゅっと握りしめて思い詰める涼太郎の肩を、斗真は優しく包んだ。子どもをあやすように背中を撫で、優しい声で涼太郎に声をかける。

「涼太郎は、ケイトが大切なんだね」
「ケイトは、僕にとって家族も同然なんです。でも、そう思っているのは僕だけですから…。ケイトはきっと、責任を感じて僕の傍に居てくれているだけなんです。だから…彼を早く、僕から解放してあげなきゃって思うんですが、僕が、どうしてもケイトを手放してあげられなくて…」
「涼太郎…」
「すみません突然、こんな話を…。こんな風に迷った時、斗真君、君ならどうしますか?」
「俺?俺なら、か…そうだな…俺が知ってるケイトは、事件が解決しました、じゃあ責任は果たしたからさようなら。なんてことを言う人間じゃないと思う。でも、涼太郎の怖いって思う気持ちもわかる。だから、俺ならとりあえず、書き出すかな」
「書きだす、ですか…?」

そう、と返事をして、斗真はゆっくりと席を立った。夕闇が迫ってくる店内はほの暗く、斗真は立ったついでに店内の明かりを強くした。自分の執筆机から原稿用紙を一枚取り出し、再び涼太郎のもとへと戻る。持ってきた原稿用紙を涼太郎に渡し、斗真はにっこりと笑った。

「小説家って職業柄かもしれないけど、頭の中で考えるより書きだした方がわかりやすい気がして。目の前の問題に対して深く考えず、直感で答えを書いていくの。そうしたら、なんとなく問題解決につながるかなって。どうしても行き詰ったらやってみて。解決できるかはわかんないけど」

にこっと柔らかな笑顔を向けて、斗真は涼太郎の頭を撫でる。それがなんだか心地よくて、涼太郎はされるがままにされていた。涼太郎は斗真に礼を言い、なにも書かれていない真っ新な原稿用紙を見つめる。心のどこかで、斗真が答えをくれるのではないかと思っていた。けれど、それではダメなんだと教えられた。どんなに高尚な言葉を吐かれても、結局自分で答えを見つけなければ意味がないのだ。あぁ、なんて自分は浅はかだったのかと涼太郎は弱弱しくなった自分を恥じた。そして優しく、自分とは違う発想をもっている斗真を、心から尊敬した。

ケイトは涼太郎と別れ、雑踏に紛れながらスマホを手に取り、慣れた手つきで電話をかける。
呼び出し音のコールを聞きながらそう言えば、と時間を確認して電話の出れないような時間じゃないことを確認する。いつもなら2コール程で電話に出るのだが、今日は珍しく長くコールを待って、ようやく「ケイト君?」と電話相手の声が聞こえた。

「電話に出るのが遅かったな。忙しいのか?」
『ごめんごめん。ちょっと集中してて気づかなかっただけ。どうかした?仕事?』
「お前に調べて欲しいものがある。いつもの場所で待ってろ」

ケイトはそれだけを言って電話を切ると、夕闇が迫る空を見上げた。
まだ太陽の沈み切らない空は、綺麗な濃紺とオレンジのグラデーションを作っている。その中にぽつんと小さく上限の月が浮かんでいた。まるで深海を泳ぐクラゲのように見えるその月が、どこか行き場を亡くした涼太郎のように見えた。別れ際の不安そうな顔を思い出し、今頃親友の神山斗真のところに行っているのだろう。頼れる相手が増えることはいいことだが、どこか寂しくもあった。ケイトは斗真が涼太郎に持っている感情を知っている。二人の事を思うと心のどこかでは安心するのに、不安や悲しみで胸が搔きむしられるようだった。
頼りなく社会の海を揺蕩う涼太郎を、ケイトは庇護しているのか、それとも必死に捕まえようとしているのか。どちらにせよ、どこにもいかないで欲しいと思った。俺の知らない間に、どうか海に溶けて居なくなることだけはないようにと、ケイトは左腕に着けている金属板に手を重ねた。

繁華街の一角にあるビルの中に入り、ネットカフェと書かれた看板をよけて慣れた階段を上る。階段を上った先ではもはや何を言っているのかわからない音量の音楽が流れ、それに交じってまた別の音楽が流れている。節操がないと言うより信念がないようにも思えるその店の受付を素通りし、個室の並ぶ静かなスペースに足を向けた。薄暗い、あまり使われない鍵付き完全個室のスペースが電話主とのいつもの場所だった。小さくドアをノックをして「俺だ」と声をかけると、かちゃん、と鍵の開く音がした。ドアを開けると黒髪を短く整えた青年、レイが、独特な椅子の座り方をしながらパソコンに向かってゲームを楽しんでいた。ケイトが中に入って鍵を閉めると、レイは満面の笑みを浮かべて「やっほー」と手を振った。

「急に呼び出して悪かったな」
「暇だからいいよ。それにケイト君の呼び出しはいつも急じゃん。今更だよ。それで?今日はなに?」
「調べて欲しいものがあるんだ」

ケイトがレイの横に座り、いくつかの単語が書かれた自分のスマートフォンの画面を見せる。レイは少しいぶかしんだ後、パソコンに向かいながら「何これ」と唇を尖らせた。

「さっき仕事で寄った本屋なんだが、裏で別の仕事を受けもってそうなんだ。わかるか?」
「あー、はいはい。おっけーおっけー。俺に任せて」

レイは上機嫌で自分のデイパックから愛機のパソコンを取り出すと、素早い手つきでキーボードを打ち込んでいく。緋道レイの本分は大学生だが、パソコン関係に精通した所謂ハッカーと呼ばれる人間で、ケイトとは知り合った成り行きで時折仕事を頼まれれている。ケイトの事を慕っており、こうした危ない橋を渡るのもどこか楽しんでいる風だった。カチャカチャとキーボードを叩く音がした後しばらくすると「これかな?」とレイが画面をケイトに向けた。画面に映し出されているのはあの本屋に書かれていたような童話の御姫様たちの名前と、金額。いくつかの文言と遺体の状態から察するに、ケイトはあの店では売春の斡旋が行われていたのではないかと推測した。

「金額からして薬物の売買じゃない?白雪姫はコカイン、シンデレラが覚せい剤とか」
「さぁな。どっちにしても黒であることに違いはない。助かったよ。それと…」
「例の件でしょ?あっちは全然ダメ。ごめんね」
「いや、いいんだ。これでもお前を巻き込んで悪いと思ってるんだ」
「別に気にしなくていいのに。それにいざとなったら俺はケイト君置いて逃げるから」

けらけらと笑いながらレイが冗談のように言うと、ケイトは「ぜひそうしてくれ」とジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。レイは慣れた手つきでそれを受け取ると、中を確認してピースサインを作って見せた。ケイトはレイの頭を軽くなで「それと」と言葉をかける。レイはそれが追加の注文だと察し、やれやれと言う顔をして「注文の多いケイト君」と笑った。

「そういえば、ケイト君の想い人は元気?」

唐突に、レイがパソコンの画面を見ながらケイトに言った。今までレイがそういった類の話をケイトに振ってきたことが無かったため、ケイトは動揺で何も返せずただ目を丸くしてレイの顔を見た。

「何のことだ」
「ケイト君の想い人、涼太郎君。ちょっと気になって調べちゃった。結構ヘビーな人生送ってるよね」
「おい、お前何を」
「ケイト君があんまり一生懸命だからさ、俺もやきもち焼いちゃうよ」

くすりと笑うレイの顔からは、とても嫉妬の感情は読み取れない。代わりに、レイの眼の奥にはなんとも言えない好奇心に満ちた炎が見えた気がした。新しいおもちゃを見つけた純粋な子どものようで、悪戯を思いついた悪童のようなその瞳に、ケイトはぞくりと背筋に嫌なものを感じた。

「おいレイ、お前が何を考えているか知らないが、涼太郎に何かしたらタダじゃすまないぞ」
「ほら、そういうとこ。いっつもケイト君は彼が中心なの。マジないわ。いい加減そう言うのやめたら?ケイト君はケイト君の人生を生きないと、もったいないよ」
「レイ…」
「俺はケイト君にはさ、もっと笑ってて欲しいって思うんだ」

そして申し訳なさそうに小さな声で「勝手に調べてごめん」と謝ったレイに、ケイトは何も言わず乱暴な手つきで彼の頭を撫でた。

翌朝、ケイトはいつものように出勤し、荷物を整理した後涼太郎と共に捜査本部の設置された場所へと向かう。朝から捜査会議が開かれるのに参加するためだ。昨晩、捜査一課と組織犯罪対策課の捜査本部が設置されたと涼太郎から連絡が入っていた。大勢の刑事たちが集まる中、ケイトと涼太郎は捜査会議の一番後ろの席に腰を下ろした。
昨日のうちに自分たちが調べたことは大秦寺を通じて捜査本部に届いている。ケイトたちのチームは捜査権限があってもあくまでサポートが役目だ。場合によっては犯人の逮捕もありうるが、そういう華は一課の刑事に持たせた方が後が楽だとケイトは思っていた。
参事官の入室と共に号令が響き、会議の始まりを告げる。参事官の隣には尾神さんの姿があった。話の流れから薬物の線を組対課が受け持つことになったようだ。捜査の進捗を聞きながら、昨日のレイとのやり取りを思い出す。薬物関連か、それとも別のものなのか。どっちの線もありうるなと思いながら、生真面目に会議の内容をメモする涼太郎の様子を横目でちらりと見た。
そもそもなぜ、あの女が黒竜の刺青をしていたのか。ケイトの目的は終始そればかりだった。涼太郎が今、何を思ってこの事件に関わっているのかはわからない。あの女性がなぜ殺されたのか、犯人は誰なのか。刑事として事件を解決することは責務だが、それよりもケイトにとって最重要に優先することはあの“刺青の男”へのつながりを見つけることだった。あの女は、あの刺青の男と何らかの関係があるのか。他にも仲間がいるのだろうか。なんらかの組織なのか、いったい、あの刺青はなんなんだ…。
捜査会議が終わり、刑事たちは各々の捜査に向かう。我先にと事件解決に向かう中、俺と涼太郎は遺体の女性の身元を徹底的に洗うことにした。
警察庁を出て、各所を回りながら女性の交友関係から過去の事まで事細かに探っていく。友人らから出た意味深なワードを手掛かりに、また次へと足を進める。これと言った大きな収穫はなかったが、ケイトにとってひとつ気になることがあった。それはあの女性が最近になってよく“お金が足りない”“カミサマに会う”と話していたということだ。

「新興宗教の類でしょうか」
「さぁな。どこかはわからんがとにかく貢ぐための金が必要だったんだろうな」

そんなことを涼太郎と話していると、涼太郎のスマホが内ポケットの中でピリリと鳴った。何か動きでもあったのだろうかと思っていると、案の定、犯人が捕まったと大秦寺からの連絡だった。
ケイトと涼太郎は急いで本庁へと戻り、連行され取調室にいると言う容疑者をマジックミラー越しに見た。中年の大柄な男は横柄な態度で刑事たちと対峙し、とても反省や後悔の様子は見られない。風貌からして真っ当な仕事をしているような人間には見えなかった。案の定、男は暴力団の構成員だと涼太郎が言った。
結局、犯人の自供によれば、あの女性が勤めていた本屋は裏で売春の斡旋を行っており、犯人の男はそこで女を買っていたのだと言う。女性は結構な売れっ子だったのだと言い、男も彼女を気に入っていた。ようやくあの女性との順番が回ってきたところでこんな仕事をやめて自分の女になれと言ったのに対し、拒否をされたことに激高しての犯行だったたという。どうでもいい痴情のもつれにケイトは辟易した。刺青も儀式も何一つ関係ない、ありふれた犯行に落胆するしかなかった。ケイトは涼太郎に声をかけ、取調室を出る。男の自供から今度はあの本屋に捜査が入るはずだ。その前に、ケイトは店主に話を聞かなければと駆けだした。

二人で急いで本屋へと向かうとすでに刑事が入っており、店主は刑事に囲まれて連れていかれるところだった。本庁へ連行された後では面倒だとケイトは刑事たちを止め、店主の男に「あんたに聞きたいことがあるんだ」と腕を掴んだ。

「あの女は誰に金を貢いでいたんだ。なんのために金を集めてたんだ。知っているなら教えてくれ!」
「ケイト!落ち着いてください!こんなところで彼らの邪魔をしてはいけません!!」
「お前は黙ってろ涼太郎!」

ケイトは抑えようとする涼太郎を振り払い、店主の男に対して真っすぐに目を見た。なにか小さなことでもいいからと、すがるような思いもあった。あの男につながる、小さな手掛かりでもいいから今すぐにでも欲しかったのだ。そんなケイトをあざ笑うかのように店主の男はにやりと嗤い「俺は何にも知らないよ」と言った。

「あの女がどこの誰に貢いでようと俺には関係ないからな。俺はあいつに売上があればなんでもいいんだ。ただ、あの女はよく言ってたよ。世界はもうすぐ終わるんだってな」

狂ってるよな!と高笑いをする男を刑事たちは忌々しそうに車の中に押し込む。ケイトはその様子を悔しそうに唇をかみしめて見送った。野次馬が集まりひそひそと何かを話している。すでに見えなくなっている車の痕跡を、ケイトはいつまでも見つめていた。

「ケイト…」
「結局、何もわからないままだな」
「そう、ですね…でも、僕は…」
「涼太郎。帰ろうか」

ケイトは乱れた前髪をかき上げて涼太郎に笑いかける。その笑顔はどこか寂し気に見え、涼太郎は胸が締め付けられる思いがした。

その後、事務処理が得意な涼太郎は各所に手伝いを頼まれ、自分のデスクに戻ってきたのは日が落ちて退庁時刻などとうに過ぎた時間だった。必要のない電気が消された庁内は所々暗く、涼太郎はきっと自分の部屋も真っ暗だろうと思っていた。蛍光灯が照らす廊下は青白く、涼太郎の足音だけが寂しく響く。涼太郎は黙々と長い廊下を歩きながら、斗真の事を思い出していた。あの日、あの後斗真が話題を反らすように「そう言えば」と涼太郎に尋ねた。

「ケイトが左腕に付けてるのって、ドッグタグだよね。あれって普通首から下げてるもんだと思うんだけど、なんで腕に付けてるんだろう。それに2枚も。涼太郎、知ってる?」
「えぇ、もちろん」

そう言って、涼太郎は自分のネクタイを緩め、シャツの下から首から下げている自分のドッグタグを取り出した。2種類の違う形状をした鉄板を斗真に見せる。一枚は楕円を描いた一般的な形をしているが、もう一枚はその3分の一ほどの細さのものだ。

「涼太郎も持ってるの?刑事なのに?」
「これは、僕と、ケイトの認識票です。大きいのがケイトのもの、そしてこの小さいのが僕のものです。僕たちはどちらも身寄りがないので、万が一のことがあっても、お互いのもとに帰れるようにと昔作ったんです。例え欠片になってしまっても、ケイトのもとには帰らないとって。気休めですけどね。どんなに強がっても、ケイトの欠片なんて見たくもありませんから。それに、こうして持っていると、ケイトがいつでもそばにいるような気がするんです」
「そっか。じゃあそれは2人にとってお守りみたいなものなのかな」
「そうかもしれません。僕は芸がないので首から下げていますが、ケイトは首に下げるのは邪魔だからとわざわざ腕に付けれるように作ったみたいですよ」
「そうなんだ。それで、涼太郎のは、なんでそんなに小さいの?」

単純に不思議に思ったのか、斗真は涼太郎の認識票を手に取り、掌の上でくるくると遊びながら眺めた。そこに打ち込んであるのは涼太郎の名前だけだ。

「他に何を書いていいかすら、僕には思いつかなかったんです」

一般的に、軍人が持つ認識票には名前や生年月日、所属、住所などが打刻される。現にケイトの認識票にはケイトの氏名と生年月日、血液型などが打刻してある。けれど涼太郎は、ケイトと一緒に認識票を作る際に、打刻するべきものが思いつかずに呆然とするしかなかった。仕方なく氏名だけを打刻した認識票を作り、ケイトに渡した。それでもケイトは嬉しそうに、宝物を手に入れたような顔で受け取ってくれたのを覚えている。

「僕には、僕しかないのだとその時気が付きました。あと僕に残っているものは、ケイトだけなんです」

他には何もないんですと、涼太郎が悲しそうに笑うのを斗真は黙って見つめていた。だったら、と斗真は認証票を再び涼太郎の首に下げてやると、流れるような動作で涼太郎の顔を斗真の大きな両手で包み込んだ。

「これからいっぱい見つけていけばいいね。それに、ケイトだけなんて言わないでよ。涼太郎には俺もいる。忘れないで」

そう言って、斗真は柔らかな笑顔を涼太郎に向けた。涼太郎は、そのまぶしすぎる斗真の笑顔に目が眩むようだった。涼太郎の頬を包む斗真の掌がやけに熱く、そして心地よくて涙が出そうになった。
あの暖かな時間がどうにもむず痒く、慣れない心地よさがたまらなかった。ぬるま湯につかったような感覚に似ている。長く浸かっていたいのに、長居をすると自分がダメになってしまいそうな気がした。覚悟を決めて刑事の道を選んだはずなのに、涼太郎はあの黒竜の刺青を再び目にしてから自分の中で何かが揺れ動くのを感じていた。
独りでいるのがこんなにも寂しいと感じてしまうのは、自分が弱くなったせいだろうか。涼太郎はもうすでに帰ってしまったのであろうケイトの姿を、人の少ない庁舎のなかに探した。

ドアを開けると真っ暗な部屋の中には、窓から入った街の明かりで部屋の輪郭をかろうじて映し出している。ふと不自然な黒い影を見つけ、影の主に目を向けると暗闇に溶けるケイトがそこにいた。窓に寄りかかって街を見下ろすケイトは、暗闇の中に儚く浮き上がり今にも消えてしまいそうな気がして、今にも誰かが連れ去ってしまうような恐ろしさが涼太郎を襲い、「ケイト!」と不自然に大きな声でケイトを呼んだ。

「あ?あぁ、涼太郎。やっと戻ったのか」
「電気も点けずにこんな真っ暗の中、君こそ何をしているんですか」
「何って、涼太郎を待ってたんだよ。一緒に帰ろうと思って」
「一緒帰るって、学生じゃないんですから…」
「いいじゃないか。それに今日は、なんだかお前と一緒に居たいって思ったから」

ダメだったか?と申し訳なさそうに笑うケイトに、涼太郎は胸のあたりに熱いものがこみ上げてくるのを感じた。ケイトの言葉に「僕も、同じことを思っていたんです」と正直に言うと、ケイトは嬉しそうに笑った。
ケイトが窓から離れるのを見て、涼太郎が部屋の明かりをつけようとスイッチに手を伸ばすと、それを遮るように後ろからぎゅうっとケイトに抱きしめられた。涼太郎の腹に回った腕は、身じろぎしようにもびくともしない。ケイトは見た目に似合わず意外と力があり、抱きしめられると容易には抜け出せない。今日もケイトはそんなことは許さないと言わんばかりに強く涼太郎を腕の中に閉じ込めた。
涼太郎の心臓がトクトクと音を立てる。背中に感じるケイトの心音に交じって、脈が速くなっていくのを感じた。

「けい、と…」
「俺は諦めないよ。必ず俺が見つけてみせるから。だから、涼太郎…」
「ケイト…ケイト、僕は…」
「俺は、お前の家族だから。ずっと、ずっと一緒だから…」
「ケイト…」

震える声で話すケイトを、涼太郎は抱きしめてやりたいのに身動きが出来ず、ただ空を掻くことしかできない。いつだってそうだ。ケイトはいつもそばにいるからと言うのに、いつだってその存在を確かめさせてはくれない。感じることができるのは、いつも不確かで物足りないささやかな体温だけだと、涼太郎はゆっくりと目を閉じてケイトの大きな掌に自分のものを重ねた。
ケイトは今、何を思っているのだろうか。二人は傍から見れば、傷を舐め合うだけの見るに堪えない関係なのかもしれない。それでもいいと、涼太郎はぎゅっと唇を嚙みしめた。ケイトが必要ならば、涼太郎はこの身を捧げることに躊躇いなどない。そして自分自身、ケイトが自分の前からいなくなるなど耐えられないと思った。ケイトのためならなんだって差し出すからと、涼太郎はケイトの手を握る。ケイトがどこにも行かない確約が欲しい。暗闇に二人、いっそこのまま溶けてしまえたらいいのにとも思った。


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