見出し画像

ベルリン州立バレエ観劇、現代バレエの現在地を考える

はじめに

10月30日、ベルリン州立バレエの新作「Bovary」をドイチェ・オーパーに観に行きました。この記事では、この観劇を起点として主にベルリン州立劇場やバレエ・ダンス界の同時代における変遷を、いち舞台ファンとしてお伝えしたいと思って書いています。私は評論家ではありませんが、振付家としての仕事に関与する最低限の報道や観劇を通して業界ウォッチはしている立場で、そんな私の知る範囲でのお話となりますことをご了承ください。

この記事の内容は、ほとんど日本のバレエ・ダンス界では聞かれない意見、取り扱われにくい事実だと思います。しかし近年日本にも多様性の波が押し寄せており、ヨーロッパ発のダンスを無条件に礼賛しがちな日本のバレエ・ダンスシーンにとって、別の見方や事実があることを知ることは、日本のダンスの未来にとって悪いことではないと思っています。
ご興味ある方、長いですがお付き合いくださると嬉しいです。

近年のバレエ・ダンスシーンのスキャンダル

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、ここ数年で欧州のいわゆる大物振付家や学校におけるスキャンダルがヨーロッパでは大きな話題となっています。最近の事例では、今年の春頃ハノーファーのオペラハウスのトリプルビル初日、同劇場の芸術監督兼振付家であるMarco Goeckeが、とある重要な新聞社の評論家に犬の糞を顔に塗りつけて職を追われた事件です。(この事件はこの秋、地方の劇場で演劇作品として上演までされてちょっとした話題にもなっていました。)

またそれより数年前になりますが、日本でも大人気だったベルギーの演出家ヤン・ファーブルです。彼はMee too運動の流れで元ダンサーたちから告発を受け、昨年判決が出たようです。(Urteil im "Me Too"-Prozess gegen Jan Fabre - Kultur - SZ.de (sueddeutsche.de)) 執行猶予付きとはいえ禁固18か月、美術館や劇場からは彼の作品はすべて姿を消したようです。
私は日本にいたときに彼の著書を読んで感銘を受け、在遣時代にベルギーで実際の作品を見て心から幻滅し途中退席したことを今でもよく覚えています。一番うんざりしたのは、ダンサー10名ほどが一斉に裸で自慰行為をするシーンが無音で5分以上も続いたことです。彼のオーディションでは脱がないと話にならないとも耳にしたことがあります。なのでこの報道を目にしたときは、さもありなんと納得したと同時に、この現代の栄枯盛衰にクラクラするような思いもありました。

多くの劇場ダンサーを輩出するベルリンのバレエ学校、日本人の子女たちも多くが留学してくる学校ですが、こちらでもセクハラとパワハラの問題が明るみに。スイスのどこだかの都市のバレエ学校でも同様のスキャンダルがあり、こちらは閉校したと報道がありました。

以上のように、今主にバレエ界ではこの立て続けに起こるセクハラ、パワハラ問題はもちろん、特に古典作品に潜む古い女性像や人種差別的表現をいかに克服し改革していけるかが、業界を超えて大きな社会的プレッシャーになっているのです。

ベルリン州立バレエ団のスキャンダル

私の専門はバレエというよりコンテンポラリーダンスとダンスシアターなので報道で知る範囲ではありますが、ベルリン州立バレエ団ではこの10年間、まるで一時期の日本の首相交代劇のごとく頻繁に芸術監督が交替していることがかなり問題視されています。

10年以上前のマラーホフ後、ナチョ・ドゥアトは批評家からの反発で契約を早期終了、その後日本でも著名なサシャ・ワルツともうお一方(よく知らないですが男性振付家)が共同ディレクターという形で就任するや否や、ダンサーたちが彼らの退任要求の署名を集め速攻退任という、日本では考えられないドタバタ劇がありました。
この件は私の界隈の同僚たちも、なぜサシャが州立バレエ団のディレクターか皆目意味不明、政治力の結果だとの意見が多く聞かれました。実際サシャはベルリンでも莫大な額の補助金をもらってプライベートカンパニーを運営しているので、バレエとコンテのスタイルの違いはさることながら、まさかのディレクターで二束のわらじ、しかも業界トップの、ということで、権力と金の集中を嫌うベルリン人には受容されなかったのだろうと個人的には思っています。

そしてこの2023~24年のシーズンから新たにクリスチャン・シュプックという振付家が、スイスのチューリヒ劇場から引き抜かれる形で就任しました。今回私が観に行ったのは、彼がベルリンでディレクターになって初めての作品の上演だったというわけです。(前置き長すぎてすみません。)
もはやコロナ禍の東京オリンピックを思い出させるような、スキャンダル続きの呪われたベルリン州立バレエを担う勇者のごとき存在として迎えられたわけです。

作品を見るまでの前情報

シュプックさんのお名前は、昔バレエ好きの友人が彼の話をしていたなくらいですが名前は知っていました。どうやらチューリヒ劇場での10年間が観客数大幅アップに貢献し大成功だったようで、それを買われてベルリンから声がかかったようです。

初演前に彼自身のインタビューを読んで、すごく真面目で働き者で完璧主義だけど誠実そうな方という印象を抱きました。就任直後、80人いたダンサー(そんなにいるの!!)を約30人解雇したという話も、芸術監督の責任の重さと彼の決断力の高さを感じさせるエピソードでした。
これを読んで私はチケットを予約したのですが、その後私のとっても優秀な(?)スマホのアルゴリズムがせっせと私の興味ありそうなニュースを流してくる中に初演批評がありました。それは初演後数日たってからの記事で、何とかかんとかして彼を擁護しようとする優しい内容でした。これでなんとなく、やっぱり批判されたんだなとふわっと悟りました。

とりあえずはちゃんと細かく観劇できるように、ボバリー夫人の大枠のあらすじだけでも頭に入れて劇場に向かいました。

いざ観劇

結論を言えば、非常に退屈な舞台でした。

振付の動きは非常に単調で基本的なバレエの動きばかり(数えきれないロンデの嵐)、音楽と動きがびっくりするほど噛み合わない(あえて外すとしても外し方の狙いが伝わらない)、舞台美術も衣装も驚くほど質素(質素なのはいいけれど使い方に工夫がほとんどされておらず統一感も欠ける)、照明の色は素晴らしく精巧だけど空間を伸縮させる効果がまるで発揮されてない(全体あかりが延々続く)、せっかく映像やライブカメラを使うのにスクリーン部が小さすぎて、さらに言えば美術の遠近法により更に奥に小さく見えてとても残念、物語の展開説明にAIかと思うほど無味乾燥なナレーションが突如かつ随所に差しはさまるので、情感たっぷりのソロの後の余韻が完全にぶち切れてしまう、なんなら生オケよりナレーションの音量の方が大きくてせっかくの生オケがしょぼく聴こえてしまう…などなど…。

そして振付演出をやる人間として一番残念だったことは、インタビューで彼はボバリー夫人の内容は現代にも通じるものが多くあると語っていたのにも関わらず、その現代との橋を渡すような演出が、多分映像でやろうとしていたのだと想像するけれどほとんど伝わらなかったことです。そのため、これは動きだけ見れば完全に古典バレエだけれど、近代文学の題材でダンスシアター的要素もあって、一体何を目指したいのだろうかという何とも言い難い思いにかられました。

1幕終了後の休憩中、そういえばちゃんと評論読んでないと思って読んでみたところ、胸が痛くなるほどの酷評でした。酷評といっても、昔ピナが浴びたような酷評はアツい反動として捉えられるいい酷評だったのだと思いますが、その評論はもはや何もない、コンセプトもなければ革新的要素もなく、痛みもなくこの題材で何がやりたいのかもわからない、見ても損はしないけど見るものは特に何もないというような内容でした。
ドイツの評論は本当に正直で、権威ある者にも容赦ありません。

私としては大方この評論に同意ではあるけれど、往年の(といっても39歳)ポリーナ・セミオノワの踊りが見られただけでも良かったなと思いました。リピートに見える同じような振付の合間に、とてもリアルかつ繊細な感情が大劇場の最後列にいる私にまで強く届いていました。これは経験値の高い少数のダンサーにしかできない奥義のような技だと思います。

現在地と未来

いろいろと述べましたが、自分の若いダンサー時代に渋谷チャコットのダンス雑誌の表紙を飾っていたベルリン州立バレエ団のマラーホフ、ポリーナはヨーロッパのダンスを象徴する存在でした。その現場でこのような退屈な作品を見るということは、私にとっては耐え難く、衝撃的とさえ言える体験です。

シュプックさん個人をディスりたいわけではありません。多分彼はダンスにとても誠実だろうし、もしかしたらたまたま今回が残念だっただけかもしれません。とはいえ最近、今の時代に本当の意味で何かをクリエイションするということの難しさを心底感じています。

というのも、コロナ禍が終わりいろいろ芸術祭やらを久しぶりに見てみると、非常に模倣に近いような作品や動きのスタイルをかなりの確率で目にするからです。実際、SNSやネットの力でなんでも簡単に模倣できてしまう時代です。
しかし模倣は、上記の酷評にもあったように、それらしくは見えるし見ても何となくいいなと感じることはできるけれども、心に傷や光を残す「何か」が決定的に欠如してしまうと言わざるを得ません。それこそが芸術と呼ぶ「何か」であるはずです。それはAIアートにも同じことが言えるはずです。

その「何か」が、世界最高峰とも言われるベルリン州立バレエ団において欠如しているという事実は、実はこの現象が氷山の一角であるということを示唆するように私には思えます。私自身も、今岐路に立たされており難しさを感じる日々ですが、今日は久しぶりに、自分が観たいと思う作品を創りたいという根源的欲求を再度強く感じられたことは大きな収穫でした。

最後に

最後に、悲しい結果に終わった観劇ではありましたが、ベルリン州立劇場はヨーロッパを代表する歴史と由緒ある大劇場であるにもかかわらず、このスキャンダルに満ちたバレエ界を現代から未来へと変革させようと様々な試みを行っています。夏の野外公演は大きな話題となっていましたし、ディスカッションイベントも定期的に開催しているようです。
そういうベルリン的気概とクリエイティビティは、日本から来た私にはとても学びになる部分です。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?