
社会人1年目、無力でしかなかった
2009年4月1日。
わたしは不安が8割、期待が1割、慢心が1割と、「めちゃくちゃ不安だけど、まぁちょっとなんとかなるんじゃないのと思いたい」状態で、
新社会人・新理学療法士として、某総合病院に入職しました。
理学療法士の資格を取るためには、臨床実習と言って学生時代に実際の患者さんの治療まで関わらせていただく実習があるため、「不安や緊張」と言えども、生の病院も初、実際の患者さんに対峙するのも初、治療を組み立てるのも初の、何もかもこれからです、というわけではなかったのですが、やはりイチ社会人・イチ理学療法士・イチ専門職として、これからは責任を持って患者さんの命の現場に臨むのだ、と思うと、まぁかなりの不安でいっぱいのスタートでした。
その不安は、不安だけで終わってくれるわけがなく、
すぐに現実問題としてわたしに襲いかかってきました。
直前に受けた理学療法士国家試験を、確か3冊の分厚い国試対策本と、何が何だかわからないくらい、読んだらすぐに眠気が襲うくらいの専門用語やら、骨やら、筋肉やら、内臓やらが並びまくる数十冊の教科書を、何十回も何十回も読み込んで、変な語呂合わせまで作って神経の名前やら筋肉の名前やらを暗記して、無事に受かったから、その場にいるわけなのですが。
そんなもの、一人の人間の前に立てば何の役にも立たなかったのです。
誰一人として、同じ症状、同じ悩み、同じ苦しみ、同じ痛み、同じ生活、同じ家族、同じ価値観を持っている人などいなくて。
何という人生経験も持ち合わせない、付け焼刃の知識をつけてきた新人には、到底把握も理解もしきれるものではありませんでした。
ペロッとサクッと、治療法の教科書に書いてあることを実践したって、そんなの当たり前ですが、多少の効果はあれど納得感があるわけでもなくて。
なまじ、勉強「だけ」ができた人間には、その圧倒的な「自分のできなさ」に落ち込んだり、なんとか勉強してアタマに知識を詰め込んだり、思ったような効果が出ずにまた悩んだりと、もう少しで折れてしまうギリギリの状態でした。
今なら、その頃の自分を笑えるけれど、当時はかけらも笑えなくて。
楽しそうにしている同期を見ては、羨んだり、自分を責めるばかりでした。
もう一つ、大きな壁に感じたのが「ココロ」の存在です。
理学療法士の治療の矛先は「カラダ」なのですが、その総合病院には精神科もあったために、ケガや病気で「ココロ」が弱っている、病んでいる人も、「ココロ」のケガや病気で「カラダ」を壊したり傷つけたりした人もいました。
「ココロ」が病気だったり、元気がないと、「カラダ」の症状は軽かったり、年齢が若くて「エネルギー」があるはずでも、治せない、治らないし、全く回復できないことも目の当たりにしてきました。
同じく、どんなに「カラダ」の症状が軽くても、「家族や大切な人との繋がり」がないと、なかなか効果に繋がらない人もたくさん見てきました。
本当に「カラダ」へのアプローチだけでいいんだろうか。
「ココロ」のケアが必要なんじゃないだろうか。
わたしのやっていることは、目の前のこの人にとって正しいんだろうか。
正しいって何なんだろうか。
医療って何なんだろうか。
今は、少しずつわかってきています。
「ココロ」と「カラダ」が切り離せるわけがなかったのですよね。
同じ人間から生まれているもので、繋がっているもので。
切り離す必要はなくて、同じく「ココロ」と「カラダ」を持つ者同士で関わっていけばよかったのだと。
尊重できるようになればよかったのだと、気付きました。
特に、女性はこの「ココロとカラダ」の繋がりが、とっても密で、繊細だから。
関わる人から受ける「ココロとカラダ」への影響も、大きくて豊かだから。
だからこそ、女性の自分自身として、
女性の「ココロとカラダの健康」に関わりたいと思うのです。