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掌編『摩耶は水たまりになった』
凍るような眠り。覚めて、生きている。怒る声。ミシミシと、鼓膜と骨が。
摩耶は土のうえに倒れていた。手をついて立ち上がろうとすると全身がとても痛む。このまま寝そべっていてもいいかもしれない。けれど、そうしていたくなかった。
身体を起こして周りを見渡すと、蒼かった。木々の幹の茶色が、やけに濃い。おそるおそる一歩目を踏み出した。摩耶がはだしで踏みつぶしている葉もまだ若い。地面は少しかたむいて、どこまでも続いていた。山とか森とかの中にいるようだった。変だ。最後に眠ったのはいつもどおり、洗濯機の中だったのに。
ゆっくりと歩きながら摩耶は、背中を丸めて自分の腕を見下ろした。点々と青あざ。赤い腫れあがり。目をそむけるために上を向くと空は澄み渡っていて、奥の奥まで透き通っている。摩耶はしばらくそのまま、前を見ずに歩き続けた。見たこともないものを見ているような気がして、とても心地良い。足を持ち上げるたびに感じるにぶい痛みも忘れてしまえそうだった。いつも、起きたてでぼうっとしていると、さっきまでいた夢の世界を思い出してしまう。いろんな色のブツブツが視界いっぱいに広がっている世界。けれど今はそんな気配もなく、空に集中することができていた。足音のリズムもはやくなった。
とぷ、と水の音が聞こえて摩耶は、はっと目の前に向き直った。樹木のあいだに池か湖か、それぐらい大きくて青々とした水の景色が広がっていた。
思わず立ち止まって目を見張る摩耶の前に水底から、若い女の人がゆらりと舞い上がってきて、顔を出した。ざぱりと音をたてて現れた彼女は、けれど少しもぬれていなかった。摩耶が見てきた誰よりも背が高いのに、体つきはとても細い。輝いているみたいに白い腕がゆっくりと摩耶を包み込む。十秒ぐらい、そうされていた。彼女の腕はとても冷えていて、とても寒くなって摩耶は、大きなくしゃみをした。
「ごめんね」不器用にほほえみながら彼女は、乾いているような声で言った。「誰にだってこうしたくなっちゃう。ここに来てくれる人はみんな、私が会いたかった人だから」
「おねえさんは、だれですか?」摩耶は目の前の彼女にたずねた。「わたしは、あんまりおぼえてないです」
「私はね、神様……ううん、違うかもだけど」神様は顔をかたむけて悲しそうに笑う。首筋に、赤くて黒くて痛そうな傷。「本当はただ、死んでいるだけなのかも」
「ごめんなさい」
摩耶はつぶやいた。わすれてしまっていることを謝ったつもりだった。すると神様はますます悲しそうに表情をゆがめた。
「こっちこそ口下手でごめんね、私と摩耶ちゃんは会ったことがないんだよ」涙を流さず泣いているような神様は、声を潜めた。「摩耶ちゃんのお願いをね、きいてあげたくて」
「おねがい?」
「摩耶ちゃん、お母さんに復讐しよう」神様の声はひび割れている。「お母さんを殺そう」
「あの、かみさま」摩耶はあわてて手をぶるぶると震わせた。「おかあさんは、おかあさんて呼んじゃだめで、ちゃんと名前で呼ばないといけないんです」
「知ってるよ」神様はおだやかに、けれどどこか厳しくうなずいた。「でもそれっておかしい。母親はどこまでも母親だから。摩耶ちゃんはまだ六歳なんだし、尚更ね」
母親のことを思い出して摩耶は背筋を伸ばしていた。このごろ、洗濯機の中が狭くなった。そのせいか、起きているときも自然と背中が曲がってしまう。みっともないからやめろ、とよく言われる。つねられる。それでも繰り返してしまう自分が、摩耶は悔しい。
「ねえ聴いて、摩耶ちゃん」神様は冷えた手を摩耶の肩に置く。「あのね、本当のお母さんは毎日洗濯機の中で寝ろって言わないし、敬語で喋れとか名前で呼べとか強制しないし、自分の機嫌に任せて叩いたり蹴ったりしないんだよ」
「やさしいです」不意に、摩耶はさけんだ。さっき聞き過ごしてしまった言葉をむりやり引き戻すように。「ころさないでください。やさしいですから」
「摩耶ちゃん」
「おねがいです」
身体が裂けてしまうぐらいに大きな声。目のあたりがぬれてきて、摩耶は自分にびっくりした。久しぶりに泣いている。泣くと怒られるから、ずっとがまんしてきたのに。
「摩耶ちゃん」わめき続ける摩耶を静かに見つめていた神様はゆっくりと、言い聞かせるような口調で話す。「わかるよ、摩耶ちゃんは本当にそう思っているんだよね。うん、わかる。私もそうだったから」言い聞かせている相手が摩耶なのか神様自身なのかはわからないけれど。「でも私はね、これ以上私みたいな目に遭う子を増やしたくないな」
摩耶は必死だった。どうにかして母親のやさしさを神様に伝えてたいのだけれど、そうできるだけの言葉が思いつかない。神様はひどく困っている。神様も、怒ったら叩くのだろうか。わからない。それでも摩耶は泣きながら言葉を探した。母親を殺されたくない気持ちは本物なのだから。
「じゃあ摩耶ちゃん、帰りたい?」
ふと発せられた問いかけに、摩耶はうなずいた。
「私は摩耶ちゃんのお母さんを殺さないよ。何もしない。摩耶ちゃんをこのままおうちに帰してあげるだけ。それでもいい?」
もう一度大きくうなずいた。そのいきおいで涙が口の中に入ってくる。摩耶はさっきまでと同じように、いや、それ以上に泣き続けていた。神様は安心できることを言ってくれたはずなのに、摩耶の涙はますます溢れた。
涙の種類も違っていた。さっきまでの涙は声といっしょに出てきた。でも今、摩耶は静かに泣いている。誰かにわかってほしい涙ではなく、誰にもわかってほしくない涙だった。
とまどっている摩耶を、神様は眺めている。母ほど怖い目ではないけれど、あたたかくもなかった。神様について摩耶は少ししか知らない。一度アニメで見ただけだ。その神様はもっと変な格好をしていて、人の心や未来を見通していた。そのくせ本当のことを何も教えずに、よくわからない考えで、人を怒ったり、愛したりするだけだった。
「帰りたくないんだね」目の前の神様も、そうなんだろうか。「私も、そっちの気持ちの方が大きかったな。でも、このまま生きていても摩耶ちゃんは」
ふっと、神様の表情がやわらかくなった。口元が緩んでいる。真似をしようとした摩耶の頭に、神様の両手がのせられた。冷たくない。そう思ったとたん、摩耶の視界は垂直に落ちた。それと同時に、身体中の痛みが消えていた。
ごめんね、と言った神様を摩耶は見上げた。落ち着いて観察すると、神様も傷だらけだった。傷は首だけでなく腕にもある。水に浸っている足はそれぞれ逆向きに折れていた。
こうするしかできなかった、と謝る神様が、何に謝っているのか摩耶にはわからない。ただ、今まで生きてきた中で一番気持ちよかった。頭の上の空がちょっとずつ摩耶をすくいあげていく。薄緑の木の葉が表面を滑って、すぐに溶け合った。静かだった。