救済への回路 宇宙開闢以来の珍事 激アツの欲望
なんというかこう、「それっぽい事」を言うために生まれてきたとこがあるな、と最近思うようになった。
掌編の在庫が尽きそうなのでこうして雑記に手を染めているわけだが、以前に雑記を書いたのが一年半前、2022年の総括だった。あな怖ろしや、一年半も経過しておる。あっという間、という感じはない、というか総括で何を書いたか全然憶えとらん。
で、冒頭の話なのだが、最近は相変わらず人と話す機会に多く恵まれておるのだが、そのたび俺は、舌を回しながら「なんかそれっぽいこと言うとるなあ」と自認してしまうのである。碌な実績もないくせに偉そうな口を叩かせたら俺の右に出る者は、まあそこそこいるだろうけど、それでも少人数だと思われる。それぐらい口先だけでその場にいる感覚がある。
別にデタラメを吹いてるわけではないので許してほしいというか、自分自身、そう思っていることしか口にしていない(その場しのぎの嘘がつける器用さがないため)。しかしそれが事実か真実かと問われれば極めて怪しいし、何というか、「面白いか面白くないか」「センスがあるかないか」「格好良いかダサいか」みたいな極めて主観的で感覚的で属人的で、俺自身があんまり好きではない価値判断の話を、勢いで断言しているパターンばかりじゃないか、と猛省するところである。こういう話題こそ実績に裏打ちされてないと説得力がないのに、何故か自信をもって断言するのである。歳だろうか。歳は歳だが、若き頃からそうだったような気がする。
歳のせいで余計に醜い様態が際立っている側面は、まあある。
生きたくないとか死にたいとか殺したいとかそういう極論が脳裏から掻き消えてずいぶん経ち、いよいよもって喜怒哀楽さえ退潮していくのを感ずる。それでも阿呆は極論でしか物を考えられないので、最近内面で専ら話題なのは「なんでこんな者が30年以上も生きていられるのだろう」という、自意識からやや遠のいた疑問である。なんか、こんな精神と肉体の割には本当によくやったと、リザルト画面でBランクぐらいに評価される程度には、本当に生き存えてしまったではないか。それで特段のストレスも抱えず、相も変わらず一日十時間睡眠も達成しているから世話ない。
かつて腹の中に居た頃、俺は逆子だったそうである。しかし生まれるときには頭から、口先から生まれてきたらしい。それが天命だったのかもしれない。
「作家になって、どうしたいですか?」という質問をここ一ヶ月の間に二回された。それぞれの別の御仁に。
どうしたいって、なんだい? そんなことは考えてもいなかった。そもそも俺は作家になりたいんだろうか。確かに小説は書き続けておるし、なれるに越したことはないが、そう、「なれる」が越せないのにその先のことなんぞ想いを馳せる想像力が、俺には欠けておった。
ちなみに訊いてきた二人の御仁もそれぞれ小説を書いており、一人はとある作家に会いたいそうである。もう一人はチヤホヤされたいそうである。どっちも激アツの欲望だと思う。羨ましさすらある。
片方の御仁に訊かれた際には「受賞会見で一発かましたい」と答えた。いかにもそれっぽいが、後から考えてみると、そこまでかましたくはない。西村賢太や田中慎弥を超えられる気がしないから。今んとこ。
それで本当は何がしたいのか、つくづく考えてみたのだが、そう言えば忘れていた欲望があった。VTuberになろうとしていたのだった。幸い今のところ、まだ純文学の分野にVTuberはいない(はず)。これをやりたかったのだ。すっかり忘れていた。すっかり忘れていたということは、あんまりやりたいことでもないんだろうけど。
いやしかし、つくづく設計の甘い違法建築みたいな人生だ。こんなもんでもやっていけるんだから現代はそこそこ平和なのだろう。俺はたぶん、あとしばらくは小説を書き続けるだろうし、それはたぶん許される。こんな時代が過去あったとは聞かないし、未来にもないかもしれない。宇宙開闢以来120億年の歴史からしても最初で最後になるかもしれない。俺の怠惰こそが宇宙の珍事である可能性。
それにしても最近小説が書けねえなあ、と思ってたけどアレだろうか。魅力的な人物を描かなくなったからだろうか。最近ふと五年前の小説を読み返す機会があったのだが、ヒロイン像が実に理想的だった。かたや今の俺ときたらヒロインのいない小説ばかり書いている。いやそれこそがリアリティやろがい、という気持ちで書いているのだがやっぱりしんどい。甲斐がない。しかもウケない。萎えて久しい情欲をフル稼働させて新しいヒロイン像を打ち立てるべきだろうか。
取り止めがなくなってきたが、要は生きるにも小説を書くにも欲望は必要なのだろう、ということだ。だいたい周囲で壮健に生きている老人というのは、大抵、何かしらの欲望でギラついたツラをしておられる。そういやこの世、欲望がない人間が生きていけない仕組みをしていたのだった。こんなことに今更気付くのだ。
人間の三大欲求は食欲性欲睡眠欲などとよく言うが、これは日本に固有の表現であるらしい。マズローあたりを引っ張ってくるのも洒落臭いんで持論で押し進むが、俺は食欲睡眠欲救済欲であると思っている。いや、今、そう思った。本当は救済欲でなく表現欲と書こうとしたのだが、表現というのは究極的に救済への回路ではないか、人は救われたいから表現するのではないか、という気がした。今まさに。セックスなんかは典型だろう。あんなもの、救済へ繋がる表現でないなら誰もしない。
救済欲と言うと「救いたい」みたいな、メシアコンプレックス的だが、俺としては「救われたい」の方を想定しておきたい。
救済欲。あれ、図らずも良いワードが出てきたな。瓢箪から駒。カスの雑記からアイデア。これで小説書こうかしらん。一応ググったけど類似ワードはでてこない(メシアコンプレックスの方は、出てくるけれども)。いけるか?
思えば俺は常々救われたかったし、実際救われた機会も無数にあった。
そういやあ昔、「セックスは書くもんかヤるもんか」みたいな議論をしていて(バカの思いつきみたいな議題だが、作家が検討しているのを何度か目にしたことがある)、俺は圧倒的にヤるもんだと思っていた。実際ヤれるかどうかはどうでもよく、セックスを書いて面白くなる小説とやらが、俺には見当もつかなかった。今でもそうである。小説でセックスが出てくると自然と眉根が寄る。思春期みたいな反応をしていて嫌になるが、いや、アレは誰が読みたいんだ。読みたいから横溢しとるんだろうけど。
最近は萎えたので核を成す単語が変わり、「幸福は読むもんか得るもんか」みたいな議論を内面でしている。つまり、小説を読む人には少なからず救済欲、救われたい欲求を持っている人がいる。「現実は嫌なことばかりだから、せめて空想で癒されたい」というような。
諦めるなよ、と俺は言いたい。鬱持ちの分際で根性論みたいなことをほざいて誠に申し訳ないのだが、いやしかし、幸せは現実で実現した方がよくね? とピュアピュアに思っちゃう。
俺は俺の小説を読む人間が、現実ではある程度幸せであってほしいと思う。もちろん幸福すぎる人間は小説なんぞ読まないから、ほどほどに闇を抱えていてほしいのだが、だからといって滅茶苦茶闇が深すぎると、それはもう俺の小説なんか読んでる場合でなくなる。
極論、メンヘラ論、現実では幸せであれ。そして俺の小説を読んで不幸になれ。と思う。
そういうことを、さっき申した御仁の一人に吐露したところ、「無理でしょうね」とにべもなく返された。まったくその通りだ。
なのでもう少し光のある小説を書くべきなのだろう。光在るところに影在り、などと使い古された言い回しもあることだし。そうすれば俺の救済欲も読み手の救済欲も、より大きく満たせるかもしれない。
あーあ、2000字想定で書き出したのに3000字超えたからとっ散らかっちゃった。「それっぽいこと」ですらなくなったんじゃないか。いいんだよ別に。小説がそれっぽけりゃそれでいい。そういう風になれ、なんとかなれーーーーッ。