掌編『壊れたかった夜』
沈んだ酔客ばかりが乗る始発で最寄り駅まで帰る。ドアが開いた途端に紗菜と一緒に、投げ捨てられたように転がり出た。お互い何も話さず、顔を見合わせることもせず、のろのろと階段を降りる。地下道を通って向かい側まで行き、改札を出る。世界の始まりみたいな朝日が、化粧の溶けきった顔に刺さる。日焼け止め……まあもうどうでもいいけど……けど一応……。反射的にバッグへ手を突っ込んだけれど、宿酔に変わりつつあるアルコールと眠気が身体を拘束して、取り出せない。
「タクで帰る?」と紗菜。
「どうしよっかなあ」
「私は呼ぶ」
満身創痍が何周かして、すっかり声が据わっている。スマホを顔に近づけ、両手で操作しているのが視界の端に映る。私はやっとバッグを漁るのを諦めて、代わりに、すっかり崩れてバラバラになる髪の毛をかきあげる。さっきまで、男のものを口に含む際に何度もした動作。彼はその動きが好きだと言った。凡庸な感性。私は、はにかんで彼のものを丁寧に舐めた。まるで恋人にしているみたいに。
男たちの名前は、電車に乗ったあたりで忘れたけれど、相手は私の名前を憶えているかもしれない。もう一度バッグに手を突っ込んで、今度は正確にスマホを取り出す。電源が切れているのを確認して、安堵する。電池切れじゃないか確認するためにボタンを押し込む。ちゃんと点いた。男たちに声を掛けられたときに切って以来、一度も触っていないと確信できる。ならラインの交換なんてしてないはずだ。起動したとほぼ同時に着信。お母さんから……。もう一度電源を切る。
「早く帰ったほうがいいよ」
顔を上げると既に紗菜の呼んだタクシーが到着して、彼女が乗り込んでいる最中だった。彼女は引き絞った黒目で私を見つめている。疲弊して上がらない口角を無理矢理動かして私は笑い、そして頷いた。そして去っていくタクシーを見送ってから歩きだす。それほどフラついてないから、十五分もかければ家に着くはずだ。ええっと、シフト三時からだから……六時間は眠れるはず……ああでもお母さんの機嫌次第かな……。
こんなことを、もう二度と考えたくなかったから夜のうちに壊れたかった。それで紗菜に泣きついたら、いつもみたいに男を漁りに行くことになって、電車に乗って街に出て、普段から使ってるナンパスポットにいたら、三人組の男が声をかけてきて、居酒屋で飲んで、カラオケ行って、またバーとかに行った……んだっけ……テキショ飲んだ記憶は、今夜のものじゃないのかもしれない。とにかく気付いたらホテルにいた。最初に耳に入ってきたのは紗菜の嬌声だった。私たちは丁寧に脱がされて、広々としたベッドに隣り合わせで寝かされていた。私が目を醒ましたのに気付いた男の一人が近づいてきて、ゆっくり頭を撫でながらキスをした。心地よかった。それ以上思い出せない……愉しかったのに……。
セックスの過程はもうほとんど解体されていて、日々のトラウマばかりが脳の表面で粟立つ。お母さんが私に包丁を向けたのは先週だった。光脱毛に通ってるのと、コンカフェのバイト掛け持ちしてるのがバレたから。理不尽だけれど、私にはお母さんが怒っている理由がわかってしまう、娘だから……。お母さんは、私が自我を持って、自ら色々なことに手を出すのが嫌いなんだ。脱毛にかかるたくさんのお金を稼ぐなんて考えられないんだ。
それに私はいつも反抗して、自分のやりたいことをやるようにして、ますます怒らせてしまう。早く家を出ないと。でも今はまだ心の準備ができない。自分でアパートを借りたなんて言ったら、お母さんが何をするかなんて、考えたくない。
それより今は帰ったときにどう言い訳するか考えないと。えっと、どうやって誤魔化そうとしてたんだっけ、今夜のこと……確かそれも紗菜と相談したんだけど……飲んでるあいだに忘れちゃった……宅飲みってことでいいか……怒られるだろうけど……。
見慣れているような初めてのような道を歩きながら私は夜を思い出す。私の上でゆっくり腰を動かしていた誰かとのやりとり。私は酩酊の頭で、できるだけ甘く言った。「首、絞めて」「首?」「そう。絞めてほしいな」「ええ、どうして」「好きだから」「首絞められるの?」「うん。それと××のこと……」「やめとく」「なんで、お願い」「やったことないし。怖いから」「私で試してみて」「殺しちゃうかも」「いいよ」「やだよ」「なんで」「可愛い子を傷付けたくない」両手で顔を抑えて照れたように振る舞いながら心の中で絶望する。やっぱりこんなことじゃダメなんだな。ちゃんと自分で死ななきゃ……。でも私はたぶん、こんな夜をこれから何度も繰り返すのだと思う。世界に見向きされなくなるまでは。
もうすぐ私の住んでいる場所に着く。お母さんの怒鳴り声が聞こえている気がする。