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白鯨について

ボイスフレンド「僕から君へ」で語られた「白鯨」について、思考の足跡をここに残す。

『白鯨』をまだ最初の方しか読めていないため、また細かい内容の記憶がどんどん零れ落ちていくため、解釈が違っている可能性はあるが、ひとまず、現時点での思考として。


「僕」に「君だけの白鯨を探すんだ」と言われたとき、私には思い当たるものがあった。言葉と感情がそれである。
私は何かを好きだと思う自分の気持ちに救われてきて、また、自分自身の言葉で語ることを大切にしてきた。だから、言葉と感情を追い求めているのだと思ったし、その二つが私を私たらしめると考えた。

ここで疑問が生じる。
・言葉と感情は誰もが持っているものであるから、私だけのものではないのでは?
・「君だけの白鯨」とは、文字通り「君だけの」ものであるのか?

以上の二つの点について考えてみる。

まず一つ目、言葉と感情は私だけのものと言えるのか、という問いについて。
言葉も感情も、誰もが持っているものである。しかし、私の言葉は私しか持ち得ないし、感情についても同様である。

耳にした誰かの言葉をコピーして、そのまま口に出せば、それは私の言葉ではなく、それを言った誰かの言葉である。しかし、誰かの言葉を咀嚼、消化、吸収して、それから自分なりに積み上げた言葉は、確かに私の言葉である。

誰かの言葉をコピーすることは簡単で、楽で、時間もかからないけれど、私はそれをしたくない。どれだけ時間がかかっても、どれだけ難しくてどれだけ大変でも、考えて考えて考えて考え抜いて、そうやって自分の中から滲み出てきた言葉で語りたい。

例えば難しい単語を知ったとして、それの意味を本質的に理解しないままなんとなく使うことは、私の言葉で語ることではない。自分で確かに理解している言葉、私の中にしっかり吸収されている言葉、それらで語ることが、私の言葉となる。

感情についてはもう少しわかりやすいだろう。同じ出来事を経験しても、人によって浮かぶ感情は異なる。それらを大別したら同じ「悲しい」や「嬉しい」の一言にまとめられてしまうとしても、私は私自身の複雑な感情を大切にしたい。
同じ紫でも、赤と青の僅かな配合の差によって違う色になる。それと同じように、私は私の感情の配合をそっと抱き締めていたい。

舞台で考えよう。同じ作品の同じ公演を観ていたとしても、劇場内にひとつとして同じ席はない。観る角度の違い、音響の耳への届き方の違い、それによって観客が受け取るものはひとりひとり少しずつ違ったものになっている。内容の咀嚼の仕方となればもっと幅広くなってくるだろう。
同じ舞台でも受け取るものがそれぞれ違うように、同じ「感情」でも、細やかな違いがあると思う。私は、私だけが抱える感情(思考も含まれる)を嬉しく思っている。

これらの考えを経て、先の問いに答えよう。
確かに言葉や感情は誰もが持つものである。しかし、私が持つ「わたしの言葉」と「わたしの感情」はただひとつしかない。これは間違いなく私だけのものである。

説明を加える。「わたしの言葉/感情」は、誰もが持ち得る。
私は私の「わたしの言葉/感情」を持つことができるし、これを追い求めている。これを読んでいるあなたもあなただけの「わたしの言葉/感情」を持つことができるし、追い求めることができる。

たとえて言うならば、私は私だけのタペストリーを織ることができるし、あなたもあなただけのタペストリーを織ることができる、といったところだろうか。
タペストリーはこの世に溢れるほどあるが、私が追い求めるタペストリーは私が織るそのひとつだけである。

私が織ることを諦めては、タペストリーは手に入らない。他の人が追い求めようと思っても、私しか、織る織らないを選択することができない。これは私だけが追い求めることができるものだ。他の人は私のタペストリーを見たり、それに触れたりすることはできるが、追い求めることができるのは私だけである。


二つ目の問いに移ろう。
「君だけの白鯨」とは、文字通り「君だけの」ものであるのか?

『白鯨』において、エイハブ船長はモビーディックを追い求めていたが、彼以外の誰かも同じようにモビーディックを追い求めることはできたはずだ。しかし、エイハブ船長には彼だけの理由があった。モビーディックを追い求める理由が。それが彼を彼たらしめていると考えると、人をその人たらしめる「白鯨」とは、その人がそれを追い求めるその人だけの理由を含むものである、とすることができる。

つまり、白鯨そのものはそれを追い求める人だけのものである必要はないが、白鯨を追い求める理由は彼だけのものである必要がある、と考えられる。

また、エイハブ船長にとってモビーディックは追い求める価値のあるものだったが、他の人から見れば取るに足らないものである可能性がある。何故人生をかけて追い求めるのか理解ができない人もいるだろう。それだから「君だけの白鯨」は「君だけの」ものになるのだと思う。

分解する。
他人がそれを価値がないものだと、取るに足らないものだとしたとしても、エイハブ船長にとって、「僕」にとって、私にとって、それが代わりの無いもので、追い求める価値があるとしたら、それは白鯨となり得る。そしてその理由は彼、「僕」、私、だけのものである。だから「エイハブ船長だけの」「僕だけの」「私だけの」白鯨と言えるのだろう。

先に挙げた「わたしの言葉/感情」のタペストリーの例えで考える。
誰もが一点物のタペストリーを織ることができるから、これを取るに足らないものとする人はいるだろう。それでも私は私が織る一点物のタペストリーに価値を感じているし、いつまでも織り続けていたいと思う。
私が価値を感じることで、私だけの理由で追い求めることで、それは「私だけの」白鯨となる。

それでは、白鯨は対象そのものよりもそれに価値を見出す心にあるのだろうか。三つ目の問いである。

この問いに対しては早々に答えが出せる。
「はい」だと思う。

白鯨(ここでは対象を指す)はなんだっていい。一杯の珈琲を美味しく淹れる方法も白鯨になり得るし、「わたしの言葉/感情」もそうだろう。「白鯨」だって、白鯨になり得る。
「僕を僕たらしめる何かが欲しい」と言ったことが、それそのものが「僕」を「僕」たらしめる。「白鯨を見つけたい」と思うことそのものが白鯨になる。追い求めるものになる。追い求めたいと思うことが、その意志が、「僕」が「僕」として生きる理由になり、希望となる。

白鯨を追い求める理由、過程、意志にこそ、意味があると思う。

「僕」は「君だけの白鯨を探すんだ。それが生きることへの希望であり、反逆なんだから」と言った。これを紐解いていく。
まず、私だけの白鯨を追い求めることが私を私たらしめる。また、私だけの白鯨を探すことが生きることへの希望となり、反逆となる。
私が私として生きることが希望となり、反逆となるならば、「自分だけの白鯨を探すこと」は「白鯨を追い求めること」でもある。つまり白鯨を追い求めることは「自分だけの白鯨を探すこと」を含むと考えられる。

「私が私として生きること」が生きることへの希望や反逆になるのであれば、上の考えが成り立ち、対象そのものよりも理由や過程、意志こそが重要である、と解釈していいはずだ。この仮定については後ほど考える。


アートの棚で語られた話も、白鯨と結びついてくるように思う。細かい言葉を覚えられなかったため、解釈に自信がないが、わかる範囲で真剣に向き合い、考えていたい。

・作品それそのものだけでなくそれをつくる過程や観るという時間もまたアートである
・見つけたいものを見つけるために作品をつくるが、それを見つけて終わりではなく、なぜそれを見つけたかったのか、見つけたものは本当に見つけたかったものなのか、見つけた後に何があるのか、それらを発見し咀嚼する必要があって、それをし得るのは私自身である。

ここで言う「見つけたいもの」は白鯨に置き換えられるように思う。白鯨そのものだけでなく白鯨を追い求める過程、白鯨を手に入れた後にそれと向き合う時間が大事である、と「僕」は教えてくれているのではないだろうか。

何故白鯨(対象)を追い求めていたのか、手に入れた(対象によってここの表現は変わってくるだろう)白鯨は本当に手に入れたかったものなのか、白鯨を手に入れた後には何があるのか、それらを発見し咀嚼し得るのはその人自身である。

ここの言葉は、「鋭敏であれ」との「僕」からのメッセージなのではないだろうか。

面白いものや楽しいこと、そして追い求めたいと、その価値があると思うこと、白鯨を見出すには私達の意識が重要であり、ぼんやりしていてもそれは与えられるわけではない。自分自身で発見し、咀嚼するという能動的な行為によって得られるものである。
面白いことも楽しいことも、私が私としていきるための白鯨も、鋭敏であり、いろいろなものにピントを合わせ、思考を巡らせることによってしか得ることができない、と「僕」は言っているのではないだろうか。


何故白鯨を追い求める必要があるのか、四つ目の問いとして、次はこれを考えていきたい。

白鯨を追い求めることが重要なのは、それが私を私たらしめるからである、と一言にまとめられてしまうような気もするが、そもそも「私を私たらしめる」とはなんだろうか。どのようなことをいうのだろうか。

「僕」が言うように、すべてのあらすじを書いたやつがいて、私が何かを選んだと思っていても実は選ばされているとしたら、私は私である、と言えるだろうか。言えない、と思う。
すべてが台本通りだとしたら、私が生きる意味はどこにあるのだろうか、また何をもってその意味があると信じられるのだろうか。私が私であることを証明するには何が必要なのか。私を私たらしめるものは何なのか。

毎日をただぼんやりと何の目的もなく生きていたら、それは間違いなく誰かが敷いたレールの上を走っているのであり、誰かが書いた台本通りに動いているのだと思う。その状況を打破するには、目的を持つことが必要だ。白鯨を追い求めることが。

誰かが敷いたレールをはみ出して、誰かが書いた台本に逆らって、白鯨を追い求める。それは、私が私として生きることだ。「私を私たらしめる」ものは、「私が私として生きること」を支える。その中心となる。

無目的に生きていたら、生きることへの希望など生まれないだろう。すべてが台本通りなら、生きることの意味など、わからないままだろう。レールを敷く誰か、台本を書く誰かの言いなりだろう。

私が私として生きるために、揺らがぬ人間性を確保するために、白鯨を、私だけの白鯨を追い求める。それはあらすじを書いている誰かへの反逆だ。また、生きることへの希望であると言えるだろう。

「僕」はそれを教えてくれたのだと思う。

鋭敏であれ、発見するんだ、見出すんだ、そして咀嚼して、追い求めるんだ、君だけの白鯨を、と。

君だけの白鯨を見つけ出すのは、君自身にしかできないことだ、と。

同じものを見てもそれで心を動かされるか否かは人それぞれであって、何を受け取るか、どう受け取るかも人それぞれであるから、私の白鯨は他の人にとって何の価値もないものかもしれないし、他の人の白鯨に私は価値を見出せないかもしれない。

いろいろなものに出会ってどれを受け取るか、どれに心、脳の容量を割くか取捨選択して、そうやって日々を過ごしていって(選ばされてきたものではなく)選んできたものから自分の白鯨を見つけ出すのは自分しかいない。

誰かが「これを追い求めなさい」と与えてきたものは白鯨になり得ない。それを追い求めることはただ台本に身を任せることであって、自分として生きることではない。人をその人たらしめるものではない。
自分で心を動かすしかないのだ。自分で発見し咀嚼して、白鯨とするしかないのだ。そのために私達は鋭敏である必要がある。

これらの考えは三つ目の問いへの答えを補強するだろう。自分で発見し咀嚼する過程が、対象そのものよりも重要である。何故それを白鯨とし、追い求めるのか、その理由は、誰かから与えられるものではなく、自らが考え感じたものに見出されるべきであるし、そうでないと白鯨とは言えないだろう。

白鯨を探すことは、自分が自分である理由を探すことである。白鯨を追い求めることは、自分が自分であることを追い求めることである。
そして、つくる過程や観る時間も合わせてアートであるように、白鯨を探す過程も、捉えた(捕らえた)白鯨を見つめる時間も、人をその人たらしめ、それによって生きる希望を与えてくれるものである。

「僕」はたくさんのことを教えてくれた。私の考えのなかには、間違っているものもあるかもしれない。正しく考えられていないかもしれない。
それでも、こうして向き合って考えた時間は意味のあるものになったと思う。

日々鋭敏であり、白鯨を追い求めて生きたい。私が私であるために。

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