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短編 ラーメン


 地元に戻ってくるのは社会人になってからというもの一度もなかったのではないだろうか。
 思えば、大学で一人暮らしを始めて、すっかりと大都会の過ごしに慣れ、そこから間も無くして就職した。周りにはなんでもある大都会の暮らしは、娯楽も就職も難しく写る地元のそれとは一線を画しているし、何よりあれだけしらけた色に感じられた人生を薔薇色に彩ってくれた。
 会社に珍しく有給を取りたい旨を伝えると、
「地元のお母さんたちに会いに。いいじゃない。恩返しする気持ちで帰ったらいい」
 上司も前向きに自分を送ってくれた。
 就職してからというもの随分と仕事に励んでいた。新人の頃からやる気だけは誰にも負けないと切磋してきた。
 仕事を定時で帰る日は、夜を感じさせない電脳街に繰り出し、趣味である音ゲームを存分に楽しんだりもした。
 もう一つの趣味はインターネットだ。大学四年に当時付き合っていた彼女から勧められたインスタグラムで一躍有名になった。というのも、最初は彼女との写真を投稿していたが、次第に趣味を全面的に出すアカウントになっていった。
 もちろん、それは音ゲームの成績発表という場合もあったし、自分が体験したことを綴る、いわばブログのようなものだった。
 実に色々なものを写しては投稿していた気がする。社会人になった今でも続けているし、今やフォロー数13万人の、この界隈ではちょっとした有名人なんだ。
 空港の休憩ラウンジで離陸する飛行機をパシャリ。すぐさまインスタグラムに投稿する。

#帰省

 投稿するや否や、すぐさまフォロワーからの
『帰省するんですね!ごゆっくり!』やら
『飛行機いいなぁ、、、私もどこかでゆっくりしたい』といった緩やかなリプライがあった。
 正直、インスタグラムは自己満足なところだと思う。ただの一会社員にすぎない存在の取るに足らない投稿にわざわざいいねをつけたり、コメントを寄せたり、投稿した側もそれを見る側もお互い好き勝手に表現できる。
 飛行機の搭乗が済んで自分の席でゆっくり休んでる時、
「見て、これ。美味しそうじゃない?」
「ほんと〜。向こうの空港の近く?めっちゃ、評価されるじゃん!」
「いいね388件!しかもこれ、美味しいブログ更新の人だよ」
「え!絶対美味しいじゃん!」
 座席の後ろから2人の女性が何やら話している。
 最近はスマホでサクサク調べて、人気のお店に行くのが流行ってる。
 自称・料理評論家を語り、さまざまな店を手当たり次第に投稿してバズりを狙う輩もいるんだろうが、多くの若者はその投稿を見ていきたい場所や食べたいものを決めているような気がする。
 地元は空港から電車を乗り継ぎして約2時間ほどのところだ。いつからあるかわからないボロ電車で本数は日中で1時間に2本か3本しかない。
 実家の玄関のドアを引いて、
「ただいま」
 玄関には草履とスーツ用の靴が置いてある。
廊下の先の扉が開き、暖簾をくぐり抜けた母は
「あら、久しぶりね。今冷たいお茶出すわよ」
 と、こちらに向かってきた。
 手荷物は簡単な土産と大型のキャリーケースだったが、母は小柄ながらに荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
 玄関を上がってすぐ手前の曲がり角を曲がると庭が見渡せる縁側になってる。実家は金持ちではないが、昔ながらにここに家を持つ地主であり、ちょっとした畑を持っていたりする。
 自室に荷物を置いて、麦茶を飲みながら生まれて大学までの数十年を過ごした自室を見渡す。
 一つの部屋にしては広めの十畳間で、箪笥も屑籠も机も何もかも家を出たその時のままだった。
 怠惰に過ごした学生時代をふと思い出す。
 部活動に励むこともなく、定時での日々の帰宅は好奇心を多分に持っていたであろう青き若者の心を火を鎮火していたであろう。
 スマホの画面を徐につけると、SNSを開く。
 特になんの連絡もないが、スクロールしたり、他のアプリを開いては閉じを繰り返す。
 スマホから放たれる人類の知覚を許さないブルーライトが、目の表面の無数の細胞の群団を一つ一つ焼き付けていく。
 スマホを一度机の上に置き、両手を頭の後ろで組みながら腰掛けを深くしながら、天井を見つめる。
「そういえば、お昼まだだな」
 ついさっきまで、スマホの画面を見ていたのに時刻が思い出せない。スマホを右手で握り、顔の前で勢いよく画面をつける。
 13:47
 もうこんな時間だったか。
 自室を出て、台所まで小走りだ。まるで小学生か。
 台所の暖簾付きの扉を開けながら、
「かぁさん、ご飯ある?」
 母さんは台所の小さいテーブルの上に肘をついて、半分以下の大福を左手で持ってる。
 ポカンとして口を開くと、
「あら?あんた、お昼まだだったん?ごめんよぉ、今から準備するわ」
「いや、今からならいいよ。伝えんかったのが悪いし、その辺で食べてくらぁ」
「その辺?その辺いったって、何があるんさ」
「今日、父さんおらん?車持って行った?」
「父さんなら朝から畑仲間と山仕事や。車ならジローちゃんの使い」
 言い忘れていたが、ジローは四つ下の弟で酪農大学の卒業課題に追われている。
「わかった。ジローのキー貸して。」
 キーはジローの部屋にあるとか。

 ジローの部屋は自室に面した廊下を真っ直ぐ奥まで行ったところの扉を開け、離れになった5メートルほど先の木造の小屋にある。

 コンコン

 ジローの部屋の扉をノックする。
「ジロー?いるのか?」
 腹が減っていたから催促した。
 扉を開けると、重みを感じる書籍が夥しく散乱した部屋の奥に、窓をぼんやりつめるボサボサ頭にヘッドホンをした男が座っている。
 足場のない部屋に無理矢理に足を入れ、男のそばまで寄る。
「ジロー!」
 肩を叩くと、ジローは気づいてヘッドホンを外して首にかけ、振り向いて、
「おぅ。兄ちゃん、帰ってきてたのかい」
「ああ、久しぶりだな。課題大変そうだな」
 ジローは机の上に広辞苑ばりの分厚い本を開いている。
「ほんと大変。卒業がかかってるとなりゃ、またこれね」
 ジローは、広辞苑を左手でポンっと叩く。
「ジロー、車のキーを貸して欲しいんだ」
「車?兄ちゃんどこかいくの?」
「ああ、お昼まだでな」
「そうなんだ。お昼って外で食べるんだね。この辺お店って言ったらなぁ……」
「ないよな。まあ、最悪コンビニ買って帰ってくるよ」
 言い切ってすぐにジローが
「あ!あそこのラーメンどうかな?」
「ラーメン?」
「そうそう。ここから車で10分くらいのところにあるんだけど、えーっとね……」
 ジローが本で埋もれたスマホを床からゴソゴソ拾い上げると、
「ここなんだけど、今日やってそうだ」
 店の情報をGoogleで調べて見せてくれた。          
確かに、まだ営業してる。
「助かったよ。そこに行ってみる」
 ジローから車のキーを預かり、ポケットに入れると意気揚々と実家を出る。車庫までの道のりは未だかつてないほど花色に見え、ステップを踏みながらスピッツの【チェリー】を口ずさむ。
「君を忘れない〜」
 ラーメンのことで頭がいっぱいだ。
 飢えたコヨーテはネズミやカエルを見つけると周りが見えなくなるだろう。アクセルを思いっきり踏むと、鼻歌はさらに高音域まで届く。  エンジンの空気が抜ける甲高い音が、外界に陽気な鼻歌が漏れるのを妨げてくれる。

 畑道を抜けて、しばらくいくと山道の入り口のような坂道がある。かなりの斜面で歩いて上がっていくにはなかなか苦労しそうだ。
 圧倒的な馬力で斜面を駆け上がると左手側に小さい店がある。
 赤い暖簾に白い文字で”みそぎ”と書かれている。壁は木造で年季が入ってる感じがする。周りに車を停められるコインパーキングもないので店の対向側の白いガードレールの小脇に路上駐車した。
「まあ、こんなところ誰も通らんし、時間もかからんだろ」
 車のドアを開けると、道路に足を出し、髪をかき分けた。湿った空気が乾いた素肌に纏わりついてくる。
 味噌ベースなのだろう。熟成された味噌の匂いがこの道一体に広がってる。
 腹の音は今日一番に鳴る。日本人の遺伝子には古代より親しみのあるこの発酵食品をいち早く分解し、自らの肉体の一部に取り込むという情報が刻まれているだろう。その芳しい匂いを一息吸い込んだだけで空腹は絶頂を迎えた。
 店の扉を勢いよく開けると、中には新聞を読みながらビールとラーメンを嗜む1人の初老がいた。
 奥の曲がり席に座っていて、こっちをチラッとやって、すぐにまた新聞に目を戻す。
 座席は丸椅子で低い申し訳程度の金属の背もたれがついてる。
 扉から一番近いカウンターに座って、灰皿に挟まれたメニューを開く。
「味噌ラーメンだけか」
 メニューには味噌ラーメンの他に、ビールや日本酒などの酒類が書いてある。
「うちは味噌一筋でやってるんでね」
 カウンターを隔てた厨房の部屋から小汚く黄ばんだ白タオルを頭に巻き、黒のTシャツをきた小太りのおっさんが出てきた。
「あなたが大将?」
「ああ。あんちゃん、普通盛りで?」
 ラーメンは大盛りにさせてもらった。なんと無料でできる。
「こんなところにラーメン屋があったなんて。地元なのに知りませんでしたよ」
「まあな、知る人ぞ知るラーメン屋だよここは」
 大将は背を向けながら麺を茹でながら、スープの準備も手際よくやる。タイマーの音が鳴る。
「へいお待ち」
 どんぶりに大人の男の掌くらいあるチャーシューが3枚も敷いてある。熱々の熱気で大将の顔が見えなくなる。厨房の隔たりの台の上からどんぶりをゆっくり前に移す。たっぷりのもやしで麺は見えてない。
「いただきます」
 割り箸を口で割り、麺に突き刺し下からサルベージする。鮮やかな薄い小麦色をした太麺に濃縮された味噌ベースのスープが絡みついている。これ以上の冷静さは保っていられなかった。
 勢いよく麺を啜り、続けざまにレンゲでスープを二口飲み込む。熱々の熱気を纏った熟成スープは舌を驚かせるが、空腹な今大脳皮質はそんな粗相を忘れている。
 チャーシューにかぶりつき、麺を啜る。分厚いチャーシューの口中でほろほろと柔らかく崩れる様は我々の身体が脂を使ってその生命活動を維持していることを想い出させる。

 帰路も舌先は余韻に浸っていた。あの味わい、都会でも食べたことのない良質で柔和だ。  人々が足繁く通う某・家系なんかよりもよっぽど深みのある味だった。
 まさか地元で出会えるとは。
 あれだけ、灰色で空の雲もまともに映えないこの田舎でこれだけ美味いものに出会えたなんて感慨深さは頂点に達していた。
 自宅に着いてから、今日の一部始終をインスタグラムに投稿した。
 写真は遠目の店の外観になっているが、ラーメンの味を伝えることと同じくらい我が地元にこれほどの店があるということを世間に主張したかったのだ。
 情報は伝播する。かくして、ラーメン外観写真には夥しい数のいいねとコメントが寄せられる。
 無論、「そのお店行ってみたい!」といった類のコメントが相次いだ。密かにハッシュタグと位置情報を埋め込んでいたその投稿を見て、一体誰が本当にこの寂れた田園に訪れるだろうか。

 あれから一年経った。仕事に戻った後もあの味を忘れたことは一度もなかった。高層ビル群の並ぶ世界の珍味を集めたドバイやニューヨークでも、本場の北京でもあの濃密な旨みは引き出せないだろう。
 今年も実家に戻ろうと思う。
 そこであのラーメンを。

 店の前に再来すると、趣が違った。
 扉を覆うようにして蛇腹にできた長い列があった。老若男女問わず多くの顔がそこにはあり、その期待された極味を堪能せむとばかりの熱狂を感じた。
 鳥肌が全身を走る。
 あの時の投稿が功を奏したのか?今やあの写真には世界各国からも多くのいいねやコメントが押し寄せていたのだ。何でもない一個人が小さな町のラーメン屋を世界の大海原へ解き放ったのだ。
 ゆうに2時間は並んだと思う。いよいよだ。  あの店主は、覚えているだろうか。
 仄かな緊張を感じながら店の扉を開ける。
「何名様?」
 従業員の1人が寄ってきてそう尋ねた。
 あの時とは比べものにならない熱気が店内を覆っている。
「1人です」
「カウンターかけて、メニューを見て注文してください」
「あの、味噌ラーメンだけでやってるんでしたよね?」
「はい?味噌ラーメンだけ?いやいや、つけ麺や冷たいラーメンもやってます。味噌がいいんです?」
 鳩に豆鉄砲打たれちゃ敵わない。
 カウンターに即座するとメニューを開いて顔を近づける。
 味噌つけ麺、濃厚タン麺などの新メニューが追加され、餃子やらチャーハンやらのサイドメニューも充実している。
 店主の気が変わったのか?味噌一本で、その味に揺るぎない自信があったはず。
 前回の味を再現したく、味噌ラーメン普通盛りを頼む。
「味噌普通一丁!」
 アルバイトらしき従業員が厨房奥の部屋に伝える。
 正直、新メニューやサイドメニューが増えていても、店の勝手だ。問題はあの美味で舌を打つ濃厚な味噌ラーメンの深い味わいなのだ。
 ラーメンが手元に置かれ、まず初めに目についたのは、あの肉厚で味噌の味がたっぷり染み込んだチャーシューが薄くなり、1枚になっていたことだった。逆にもやしの量は増えていた。
 焦燥を隠しきれないまま、割り箸を割って麺に突き刺す。
 もやしをかき分けてスープ底に浸かってる麺を出す。香ばしい湯気が顔一面を覆う。
 あの時の鼻に抜けていく衝撃はない。麺を一口大きな音を立てて啜る。口を閉じ、ゆっくり咀嚼する。
 味覚とは相当に記憶に残る五感の一種と思うが、脳に与えられた味覚情報に膠着しているのか中々頭蓋骨に守られたそれは反応を送らない。
 箸を両手で上手に揃えてからどんぶりの脇に寄せ置く。眉はとっくに吊り上がり、冷や汗が出てくる中、他の客や店の中を舐め回すように一見する。
 そのとき、訝しい顔をした見覚えのある小太りのおっさんが出てくる。
 大将だ、ああ、相変わらず黄ばんだ白タオルを頭に巻いてる。
 汗がびっしゃりと黒Tシャツに跡を残している。ひしゃげた眉毛をきっと強気に切り替えて、
「大将、お元気?」
 大将は目を丸くして、こっちをじっと見る。
「あん時の兄ちゃんか」
「ええ、ご無沙汰してます。お忙しくなったようで」
 失礼を承知の上で切り出すと、大将も切り出してきた。
「全くだよ。こんなに繁盛しちゃあな」
「いいこと。大将も嬉しいんじゃありませんか」
 大将は眉をひそめて、語りかけてきた。
「どこぞ誰かがネットで広めやがったってよ。おらぁ、地元の小さい店でよかったのに。常連中は列を見て、もう店にゃ入れない。自慢の味噌にイチャモンつけるやつもくるわ、サイドメニューないのかと文句垂れるちゃんネーもいるわで商売上がったりだわ。おらぁ客の愚痴を聞くために店開いたんじゃぁねぇ」
 割れたガラスの破片が心臓すれすれを擦って身体を突き抜けていく。
 店が変わったんじゃない、店を変えさせたのだ。
 拙いインスタグラマーだった由々しき人間のせいで都会で美味珍味をごまんと味わった舌に衝撃を走らせたあの極味を大破させてしまったのだ。
 開いた口が塞がらない。
 店主は忙しく、話を切り上げて次のメニューの準備に取り掛かった。
 徐に箸を取り、食事を再開する。麺は薄く濁った灰色に映る。熱々の湯気で目の前が霞む。ゆっくりと持ち上げた麺にレンゲを添えながら口元へ運ぶが、おおよそ厚めの輪ゴムの束を含んでいるような感覚になった。

注・画像は他クリエイター様から拝借しているものです。


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