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線香花火みたいな
熱海の山の上にいる。朝7時。
ひとはいないし、朝の空気が本当に美味しい。
最近は東京にいても、朝の空気にキンモクセイの香りが混じって、なんとなく美味しい気がしていた。
けどやはり熱海の山の上に来ると東京で吸っていた空気がやや生ぬるいことに気づく。
熱海の山の上の空気は鼻の奥をパリッと刺す感じがする。もちろんそれは心地よい刺激だ。
昨晩、花火をした。季節外れの花火。
花火に季節なんて本当はないと思うけど、熱海の山の上に夏の暑さはもうなくて、違う情緒が漂っている。
友人が浅草橋の問屋街でわざわざ買ってきてくれた花火。
「ドン・キホーテで売ってる花火とは違うね〜」
本当に違う。花火が最後の最後まで粘り強い。
しかし花火をやっていてぼくは気づく。
「あれ…花火ってなにを楽しむんだっけ」
友人と花火をやるというこの時間は非常に尊い。
花火自体もすごくきれいだ。
なのに子どもの頃に感じていた高揚感が失われていることに気づく。
夏が終わったから?地面がぬかるんでるから?虫がいそうだから?
なんとなく答えは出ている。
激しく発光する“火”に対して感動が薄れてきている。
自分から老け込むつもりはないが、そこに感動する時代が終わったのかもしれない。
その一方で線香花火への情緒の揺れ動きは我ながら喜ばしいものであった。
浅草橋の問屋街で売っている線香花火は最後の最後まで花火の持ち手を楽しませてくれる。
静かに、だけどたしかに命を燃焼させている火種。
それが地面に落ちる瞬間、激しく破裂する。
星の一生を眺めている気分だった。
自分の情緒にやや溺れながら、時は再び朝の7時、熱海の山の上。
しばらく読み進めることが出来なかった若林さんのエッセイ集をパリッとした空気の中で再び開いてみる。
ことば達が驚くほどにすっと身体に染み込んでいく。
ああ、この感覚だ。本を読んでいて、ことばが身体に入っていかないのであれば無理して読まなくても良いのか。
無理はしない。でも静かに燃やす。
自分の身体と心がそんなフェーズに入ってきているのかもしれない。
もう一度書く。
自分から老け込むつもりはない。
でもそれに抗わない。受け入れる。それだけ。