痛み・苦痛について
自分は拷問には耐えられると思ってた。
しかし、考えを変えた。
無理です。
耐えられません。
瞬間的な痛みには、耐えられると今でも思っている。
しかし、継続的な痛みには、・・・・だめですわ。
癌が進行したせいか、最近腹部に鈍痛が続く。
これがいやらしい。
健康体での腹痛なら、体の回復と共に痛みも引いていく。
しかし、癌が進行していく過程での痛みとなると、より痛くなる方向しかない。
つまり、和らぐとかいうことがない。
これがきつい。
強烈な痛みではないが、ずっと鈍痛が続く。
これに、心が折れるのだ。
そこで考えた。
一体これはなんだ。
だってそうだろう。
人が死ぬとき、いや人でなくてもいいが、なぜ痛み・苦痛が必要なのだ。なんの意味がある。
健康体であるときは、痛みは必要だ。
体に無理が掛かっている時、あるいは、病気や怪我をしているときは、それを警告知らせる意味で痛みはとても重要だ。
しかし、死ぬ時になぜ痛みがいる。
もはや病気や怪我であることは、分かっている。
そして、それが回復不可能であることもわかる。
だったら、もはや警告としての痛み・苦痛は役目を果たした。それ以上に痛みが存在する意味がないではないか。
生物の仕組みからして、不必要な機能はないはずだ。
だから、死期が迫ったら痛みではなく、快感が生じてもいいはずだ。
というより、そうしないと死を受け入れ難いではないか。
体の機能がひとつづつ停止していくにつれて、だんだん快感が増し、静かに歓喜と共に生を終える。
死が不可避であるなら、これが生物の設計として合理的ではないか。
生命は、生を楽しむと共に、死もまた、喜ぶべく作られて然るべきではないかと思う。
なのになぜだ。
なぜ苦痛があるのか。
一つ考えられるのは、耐え難い苦痛によって心を折るためかと思う。心を折り、楽になりたいという思いで死の恐怖を越えさせる。
つまり、こんな苦痛が続くくらいなら死んだほうがましだと思うようにさせるというわけだ。
しかし、これでも疑問は残る。
随分とひどい設計だ。
心を折ってしか、死を受け入れられないなど、最低の設計だと思う。
やはり、死に至る過程は、歓喜、あるいは穏やかな喜びに包まれたものであるべきだと思う。
私なら、そう設計する。
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