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空気が読めないのではない。 読まないように踏ん張っているんだ!

「yasuは、空気が読めないから」と、よく言われる。
その度に思う。

読めないのじゃ無くて、読まないようにしているのだ、

分からんのか、と。

法律家にとっては、空気を読まないというのは、必須な資質だと思う。それが、先天的なものであれ、後天的に修練で獲得したものであれだ。
まあ、ほとんど修練の賜物だと思うし、その方が有用だとも思う。

法律家は、依頼人の話(言い分)を聞きながら、問題の全貌を把握することに全力をあげる。それから、聞き取った事実(これを生の事実と言ったりする)の中から、法律的に意味のある事実を抜き出して、判断する。

みんなそれぞれ言い分がある。
その言い分の衝突の決着をつけるのが法律だ。

だから、自分の思いが必ずしも通るとは限らない。
否定されることも当然ある。
日本で社会生活をしていく以上それは、受け入れざるを得ない。

自分の思いが否定されるのは、誰にとっても気分の良いものではない。依頼人は、自分が依頼した法律家からは、自分に有利なことを言ってもらえる、少なくとも有利なことを考えてもらえると思っている。

もちろん、依頼人にとって、有利なことは全て考える。
しかし、それでも、ダメなものはダメなのだ。

だから、依頼人の感情や思いを忖度して、判断したり、分析をしてはならない。もししたら、それは法律家として、不誠実あるいは端的に無能だ。
しかし、これは意外と難しい。

どうしても、目の前にいる依頼人に同情したり、依頼人の怒りの剣幕に押されてしまうようなことが起きがちだ。

これに抗して、敢然と職責を全うするには、力がいる。しかし、この力は、普段から鍛えておかなければ、役に立たない。

普段、だらしない姿勢で過ごしているものが、かしこまった席で、突然1時間正座ができるかといいうと、できまい。多分、10分間も怪しいと思う。
これと同じだ。

だから、私は、普段から是々非々に関しては、忖度なくするようにしている。当然、空気は読めるが、読まないように、つまり、場の雰囲気に判断や意見が流されないようにしている。
というか、そうするように踏ん張っている。

その結果、冒頭のような発言につながる。
お前さん、普段から修練を積まないで、よくやれるなあ、とか思う。

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