心が救われたのはいつだって
人間が何気なく放った言葉に心を救われた記憶なんてない。何気なく放たれた言葉に意味なんてない。言葉を話すということは言葉を離すということ。人間から離れた言葉はふよふよと空間を舞い、誰かの心に落ちていく。本人の意図しない場所に落ちることや、意図しない意味で伝わることなんて日常茶飯事。だから、わたしは人間が放つ言葉達が怖い。
そんな私が心救われるのは多くの場合小説だ。
社会の中でだんだんと色褪せてゆく景色を見ることに疲れ果てていた時。信じるべきものが分からなくなり、どうしていいのか分からなかった時。そんな感情を誰かに話してもきっと分かってもらえない。どうせ。と思っていた時。何気なく読んでいた西加奈子さん著作の「サラバ!」にこう書いてあったのだ。「私は私を信じる」「私は私の信じるものを誰にも決めさせはしないの」そんな力強い言葉達が並んでいた。
私はハッと息を呑んだ。心がすーっと軽くなるのを感じた。
色褪せていた景色に色が戻る感覚があった。あれは確か通勤途中の電車の中で読んでいたときのことだ。気持ちは高揚し、この言葉達に出会えたことを幸福に思った。と言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、決して大袈裟なんかではない。本当に、心の底からそう感じたのだ。
こんなことってあるんだなあ、という感覚を私は小説を通して何回か経験をしている。それはいつも意図していないところで。だから、言葉と運命的に出会う、という表現がしっくりくる。意図していないといってもその本を選び、読み進めるということは自分自身で選んでいる行動なので、「よくやったぞ!私!」というなんだかよく分からない賞賛を自分自身に送る、ということもある。
得てして、心を救うも救わないも自分次第。
私のように、自分が落ち込んだときや何かあった時に他人に話したり、感情の発露が苦手な人は小説や音楽に逃げて救いを求めるのではなかろうか。そしてそういう時にはものすごくタイムリーに自分の欲しかった、かけてほしかった言葉に出会えるから不思議である。
そして、そんな時には「よくやったぞ!私!」なんて言葉を自分自身に振りかけてほしい。救われるのは誰かの言葉でも、その光に導くのはいつだって、自分。
#君の言葉に救われた #エッセイ #ショートストーリー #小説
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