そして、

肩書きのない人。いくつからでも夢は始められる。願い,信じ,行動し,叶えていきたい。徒然なる日記。ここに、こんな人間がいることの定点観測。

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肩書きのない人。いくつからでも夢は始められる。願い,信じ,行動し,叶えていきたい。徒然なる日記。ここに、こんな人間がいることの定点観測。

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あの夏の記憶は曖昧過ぎて

いつかの年の、8月某日 夕陽が電車の中を射す。 座る側を間違えた、と思った。 椅子は車内の左右に長いベンチのように位置している。 しまった、と思った時にはすでに遅い。わたしは夕方の太陽と対峙する方に座ってしまったのだ。 沈みゆく夕陽は嫌というほど私の顔を照らしてくれる。煌々と。 今更立ち上がって向かい合う椅子に座り直すこともしたくない。なんとなく、、だけど。 正面には小説を飲みながらたまにリュックの中からワンカップを取り出してぐいっと飲み、またリュックにしまうという行動

    • 私、やっと大人の階段登ってます。~アラサー女の徒然~

      いつの間にか気づいたら29歳もあと少し。今年で30歳になる。社会の荒波に揉まれ、様々な男女の物語だって経験してきた。人から、まだまだ若いよ〜と言われていたのはギリギリ28歳まで。29歳ともなると、もうすぐ30歳、の色が濃くなってきて、まだまだ若いよ〜の言葉はあまり言われなくなった。だからといってそれが悲しいわけでもない。たった1年、されど1年。年齢にはいくつもの壁があるのだなあとしみじみ思ったりする。 人って1年あれば十分変わる、変われる、変わってしまう。 大学を卒業後、

      • 感情のツボミ

        人前で泣けない。泣きたくない。 どうしたって、笑える映画を選んでしまう。 泣きたくないから。見られたくないから。 でも、もう少しで君の前でなら。 って、心が緩み始めている、ような気がする。 冬、硬かった蕾が、 春、次第に緩み始めるように。 何年の付き合いだ 時間がかかる。どうしようもなく。 許せる人はひとりだけ。 ポジティブな感情を見せるよりも、ネガティブな感情を見せる方が難しい。ピエロはいつだって、笑っているし。私は常に笑顔の人の方が、少し怖かったりもす

        • 幸せは

          太陽が西の空に沈みゆく時間。 君とスーパーからの帰り道。 二人で歩いて帰る、帰り道。 二人の身体が夕闇に染まる、帰り道。 君は両手に夕食の材料がたんまり詰まったスーパーの袋を。 一つ持つよ? って、言ったら 軽い袋を渡してきて、 二人して ”ありがとう”って呟く、帰り道。 太陽は相変わらず西の空に沈んでいて。 君とスーパーからの帰り道。 二人で歩いて帰る、帰り道。 二人で分かつ、帰り道。 #ショートストーリ #詩 #日記 #ひとりごと

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        あの夏の記憶は曖昧過ぎて

          やりたいことリスト

          やりたいことリストを作成したことある人って結構いるのだろうか。少なくとも私は今まで何回も”やりたいことリスト”なんてのを真新しいノートに書いてはその日の夜の内に満足して、布団に入り、次の日の朝には書いたことすら忘れている、なんてのが常だ。 そして昨夜もその”やりたいことリスト”を作ってしまった。性懲りもなく。ノートの、何かを書かれることを待ち望んでるかのようなまっしろなページに。書いてやったのだ。(私は必ず手書きで書く) 書いたことすらを忘れる、というどうしようもない記憶

          やりたいことリスト

          記憶の余白に思い出を。

          8月が終わる瞬間を、人々はなぜこんなにも意識するんだろうか。今日は8月最後の日曜日だ、なんて言われていたくらいには、8月という存在をみんな名残惜しんでいるし、終わっちゃうなあっていう余韻を噛み締めている。この特別感は、何ぞや。と思いつつ、わたしもそんな余韻を少し噛み締めていた。 いつもの日常が大きく変わった今年の夏。記憶の余白に思い出を描くことなんてできるのだろうか。それでもなんだか振り返りたくなるのが夏の凄いところで。何もしなかったなあ〜な夏も、花火はしたなあ〜な夏も、全

          記憶の余白に思い出を。

          人生の手触りを。

          うまく生きられてないなっていう出来事が何個たまったら世界を生きられなくなるのかなとか、うまく生きられてるなっていう出来事が何個たまったらそれを実感できるのかな、なんてことをなんとなく思いながら誰もいない田舎道を散歩した本日。空がだだっ広く見える道。サイコー。‬ いつかの自分の言葉たちを眺める。Twitterの下書きには過去の想いがたくさん存在していて、それを眺めては、あれ、わたし昔こんなこと思ってたんだなとか、これ本当にわたしが書いたのかなとか思う。 でも、色褪せることなく

          人生の手触りを。

          日常は地続きで、

          朝も昼も夜も、人間が名付けたただの名前に過ぎない。だから、本当は朝も昼も夜も存在しないんだと思う。 そんな風に区切らなくても、日常は毎日だらだらとも、しっかりとも続いていく。 太陽も月も自分たちの自然の動きに従っているだけで、都合の良いように大昔の誰かが付けた名前を呼び続けている私たち。 なんて、屁理屈?偏屈?極まりない? そんなわたしの中の偏屈王が顔を出すときは、決まってネガティブになっている時で。 日曜日はいつも。 ああ、夜がきたぞ。明日の朝がきたらまた仕事だ、、

          日常は地続きで、

          こんな感覚が共有できたならば、

          ふとラジオで流れてきた曲の歌詞に感動をして、そのあと生涯、人生のお守りのような曲になる事とか、 どこかの川で拾ってきた綺麗なただの石ころを君がくれて、それを何か悲しいことがあったり頑張らないといけない時なんかにぎゅっと握りしめると心が落ち着くようなお守りになったりだとか、 あの人が突然くれた1本の薔薇の花は、すぐに枯れてしまったけれど、その花が自分の中の大切な大切な記憶のお守りになったりとか、 わたしのお守りは、お守りですよ!と主張はせずに、ひっそり、こっそり、潜んでい

          こんな感覚が共有できたならば、

          どこか似ていたはずの僕たちは

          春が好きだと言った君と。 春は嫌いだと言った僕と。 どこか似ているはずの僕たちも、春の好き、嫌いについては意見が別れて、なんでそう思うのかを永遠と馬鹿みたいに討論しあったのを覚えている。あ、 ''永遠と'' は嘘だ。たぶんもっとずっと短かったし、討論と呼べるものでもなかったな。 春は世界の全てが無理やりに眩しく見えて、少しくらくらする。急に視界が開かれていき、心は追いつけなくて、疲弊する。どきどきもわくわくも僕の許可なく無遠慮に押し寄せる。 だから、春は苦手だ。

          どこか似ていたはずの僕たちは

          夏といえば?

          と、君に訊ねたら 暑い。クーラー。 なんていう返事が返ってきて、ちっともわくわくしなかった。 そんな言葉を返されるのは、脱ぎっぱなしにされた靴下よりも、洗われずに放置された皿達よりも、嫌いだ。わたし。 もっとあるよね?夏ってさあ、ほら。 スイカとかお祭りとか向日葵とかさ。 そういうの、想像しようよ。 って返したら、 ああ〜そういうのね。 全然思い浮かばなかったわ。 と言ったときの浮かない表情の、君。 その表情を見て、わたしはもっと浮かない顔になる。君は思い付かない

          夏といえば?

          誰かとの未来を創造するのが億劫だ

          人間はひとりでは生きていけないのは痛いほどに分かっている。のに。 わたしのように社会不適合かつ人間不適合な者はなおさら。なのに、人と過ごす規則的な毎日に少し嫌気が刺してはひとりでいたいと思ってしまう。 毎日働き、ご飯を食べて、寝て、空いた時間は趣味の時間に、そしてたまに遊んで、いつかは結婚をし、子供を産んで老後をゆっくり過ごす、、、??? と、そんな想像を現実に落とし込めるように人間は毎日試行錯誤をして幸せと名前のついたリアルを追い求めている。 たぶんそれが人間的

          誰かとの未来を創造するのが億劫だ

          あるがまま、ありのままに

          いつからだと思う?人をきちんと愛せなくなったのは。 いつからだと思う?人と目を見て話すのを怖いと感じたのは。 いつからだと思う?人との距離感が掴めなくなったのは。 本当の自分を押し殺す。素直になんてなれるわけがない。虚像と虚勢の自分で走りぬけてきた、いつだって。本当の自分?そんなのいたっけ?頭の中で自問自答を繰り返す。 "服は自分の着たいものを着ればいいんだよ。人の目なんて気にせず思いっきりお洒落を楽しもう!" SNSでアーティストが超個性的な服を身にまとった写真

          あるがまま、ありのままに

          心が救われたのはいつだって

          人間が何気なく放った言葉に心を救われた記憶なんてない。何気なく放たれた言葉に意味なんてない。言葉を話すということは言葉を離すということ。人間から離れた言葉はふよふよと空間を舞い、誰かの心に落ちていく。本人の意図しない場所に落ちることや、意図しない意味で伝わることなんて日常茶飯事。だから、わたしは人間が放つ言葉達が怖い。 そんな私が心救われるのは多くの場合小説だ。 社会の中でだんだんと色褪せてゆく景色を見ることに疲れ果てていた時。信じるべきものが分からなくなり、どうしていい

          心が救われたのはいつだって

          ええやん、おじさん。

          46歳のおじさんがライブで思いっきり拳を突き上げ、大声でレスポンスに応えている姿を見て、ええやん、すてきやん。と思った。 何歳になっても好きなものを好きだと全力で言える人間でありたい。 そうは言っても周りの目を気にしてしまうし、 年齢という枠の中に自分自身を放り込んでしまってその中でしか生きられなくなる。 もっと自由でいい。自由であれ。 そんな風に思えるのは私がまだ20代であるからか。40代、50代になってしまえばそんなことも思えず、全力で拳を突き上げる同年代の人を白

          ええやん、おじさん。

          嫌いの中の好きを探して

          冬の寒さをすこし思い出した。夏はいつのまにやら姿を消して、秋が顔を見せ始めている。冬は空気の透明度が高くなって星が綺麗に見えるから好きだ。冬のいいところはそこだけ。だってひどく寒いし、あの静かな空気感は寂しさを増幅させてくるから嫌いだ。でも、はたと立ち止まりすこしばかり考えてみたら、案外すきなところもあるかも?なんて思った。 と、いうのも冬はさみしい気持ちを助長させてくるけれど”幸せだ”と思う回数も少し増える気がする。他の季節よりも。 寒い寒い外界の、身を切るような冷え切

          嫌いの中の好きを探して