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タマネギ本部からすれば着物はタマネギの皮
いいなと思って、マネをすることから始まることって多いと思うんです。もう、意識しようが無意識だろうが、そこから始まることの方が圧倒的に多い。そこはそれで王道。何をマネてもOK。
ただそのときに、マネを自覚できている方が有利だと私は思います。何に有利かって、それは極めて何ものにも変えがいたいへ一歩でも近づくことに対して、です。これに近づいていると楽しさが知らず倍増します。生きるうえでの風味というか、スパイスだったり、存在の証みたいなものだったり、人によって違うけれど。
ずっと、もしかしたら最後までタマネギの皮を剥いてもむいても皮だった!みたいなことになるかもしれない。けれど、それでもどんどん甘くなります。
そう、話は少しそれますが。
そろそろ新タマネギの季節ですね。
安く良いものが手に入る、新タマネギの旬がやってきます。血液サラサラ効果=解毒に寄与するタマネギは、調理方法も多様で多用できます。ところで、新タマネギに限らず、そのタマネギの中心に「タマネギ本部」があることを知っていますか? 私は最近知りました。まるまるアボカドの種のように格納されています。
そのタマネギ本部をアボカドの種を処理するように取り出し、そのままポトフやカレーなど温かい煮込み料理にしてみると、別素材を入れたかのように知っているタマネギの当たり前の味とは一線をかくした甘さと旨みを味わえました。ここが大事です。ざっくり見るとタマネギは皮が皮を包み込む形をしていて、全部皮といえば皮。なのに、明らかに一線をかくした本部的なところは別物として味わえるのです。何故でしょう?
人もそうではないでしょうか。
私も、学生時代の部活や大人になってからの仕事を通して、この手の話をたくさん聞いてきました。まずはマネることを勧められ、見よう見まねで盗むことを覚え、脳内にパターンや型を累積し、そうするとどれもこれも手垢のついた既知のものに見えてくるようになります。そして、その最初(プリンシプル)へ辿り着きそうな気分になりました。つまり、どれもこれも有って無いようなもので、有っても無くても同じかもしれない。私があなたで、あなたが私のような。そうなると虚無に覆われますね。
そうなったら、「タマネギ本部」を味わってみてください。これからなら旬の、特に美味しい時期の「タマネギ本部」をお勧めします。簡単に煮込むだけでも、大きいまま使ってもとぅるっとして柔らかいです。
話を戻すと。
たとえた「タマネギ本部」は、個性(オリジナリティ)のようなものです。もっと別のいい表現が見つかったら書き換えます。
タマネギの皮 = 模倣(マネ)
タマネギ本部 = 個性
あれ?
同じタマネギの皮のはずなのに、なんで甘いんだろ?なんでこれは美味しく感じるんだろう?っていうそれが、人で言えばその人のいい味が出ているときということ。
そういう意味で言えば、着物はタマネギの皮です。
十二単(じゅうにひとえ)って知っていますか?
平安時代の貴族の装束で、何重にも重ね着しているやつです。紫式部とか小野小町とか、だれか百人一首の女性の絵を思い出してみると、あれってまんまタマネギの皮みたいですよね。そう、十二単はタマネギです。そしてタマネギ本部は紫式部だし小野小町。そして、アナタです。最後まで皮だった!もありだし、そうでありたい場合もあるけれど、人と違う装いは個性的なものを羽織ることだけではない、というところなんです。
ひとつの装いが、その人にピッタリ合うと変な力をまとうように美しさがあらわれます。新しいか古いかも、高いか安いかも、目立つか目立たないかもまったく関係のない魅力が出てきます。パズルがハマったときの爽快感をもともないます。見つかって良かったねって思います。
後で、タマネギの写真撮れたら追加します。