劇団四季『ゴースト&レディ』デオンとグレイの話
こんにちは。
当noteでは以前から劇団四季『ゴースト&レディ』について、いち場面ずつ好き勝手に語りながら進めておりますところなんですが、
何しろ語りたいことが多すぎて、そして私の筆も遅く、なかなか進まない。
そんな訳で千秋楽には到底間に合いそうにない中、
まあ千秋楽後もロスを引きずり続けるでしょうからゆるりと続けていくつもりではあるのですが、
とりあえず先にこれだけは語りたい!という事で番外編ですっ飛ばしてここだけ語ります。
非常に長くなりますので、まずは要点だけ先にお伝えすると、結局のところ私がこの記事で言いたいのはこの3点。
1、デオンの本望とは〜女性として栄光を掴みたかったのではないか
2、ゴーストが塵となる手段は、劇中で語られる「2つ」だけなのか
3、フィナーレで晴れやかな表情で劇場を去っていったグレイのその後
こちらについて好き勝手にダラダラと語っていきます。
まずデオン・ド・ボーモンについて。
こんなに魅力的な敵キャラ見たことがないというくらい、ほぼ全ての観劇者が心を掴まれる美しきキャラクター。
原作では見た目は美しい女性に近いデザインでしたが、性別を明確に断定されておりませんでした。
男でもあり女でもある、両性の強さを持つ、私の大好きなセーラーウラヌスと同じ。
一方舞台版では明確に女性であることが断言されました。
生前の活躍時は女性であることを隠し男性として生きていたが見破られ悲惨な最期を遂げ、本来の自分らしさが出るというゴーストの姿は明らかに女性であるキャラデザインとなっています。
意外とこのデオン様についての情報は多くはなく、♪呪いと栄光 で本人が語り踊る内容と、あとはグレイが語るほんのわずかな情報だけ。
とはいえグレイも生前のデオンとはほとんど面識がなく、それこそ直接の面識はグレイの最期に剣を交えたあの時だけでしょうから、あとは噂話程度のものでしょう。
残念な事にダンスの知識が全くないので、♪呪いと栄光 の素晴らしいダンスシーンをほとんど読み解く事が出来ないのですが、
途中の何度か仮面を外すような仕草、そしてその瞬間の不安そうな表情、まるで赤子をあやすような振り付けなど、非常に意味が詰め込まれている気がします。
デオン様に関してはキャストのお2人比較的バランスよく拝見しているのですが、いつだったか宮田愛さんの回を拝見した際、ふと思いついたことがありまして、
デオンは男性に生まれたかったのではなく、女性として認められたかったのではないかなと感じました。
これについて掘り下げて行きます。
セリフでも「女であることは呪いでしかない」と言っていたり、グレイに女であることを指摘されると激昂したりと、一見「女」を忌み嫌っているようではあるのですが。
じゃあ彼女の望みは男として生まれる事だったのか、いわゆる今の時代でいうLGBTQのような論点の問題かというと、そうではない。
父親に命じられ男のフリをして生き、数々の栄光を掴み騎士シュヴァリエとして華々しく活躍していた全盛期。それが女だと見破られ、栄光からの転落、惨めな最期を遂げたと語りますが、
例えば死ぬまで女であると見破られずに、映えある騎士シュヴァリエデオンとして人生を終えていたらそれが本望だったのか。そうでもない、と私は感じます。
かと言って、いわゆるあの当時の淑女の典型的な暮らしを女性として生きたかったわけでもない。
デオンの本当の望みは、女性である自分のままで騎士、シュヴァリエデオンとして栄光を得たかったのではないかと思います。
もちろん女だからと手加減されて勝つのではなく、女性として男性と対等に戦い、勝つ。
それがデオンの成し遂げられなかった願い、いわゆる未練というやつになっていると私は思います。
そこでフローに話を移すと、彼女も当時の階級の高い女性の一般的な生き方(家柄、財産のある男性との結婚)を選ばず、自分の進みたい道を選びます。
彼女の飛び込んだ世界も男性社会、「戦争なんて男に任せなさい」の時代ですし、スクタリ到着時にはメンジーズ達に女性である事を理由に拒絶されます。
ここで例えばフローが男性に扮して組織に入っていれば、これほどまでの拒絶はなかったのかもしれません。フロー自身は大変に能力のある人ですから、仮に男性軍医として組織に入っていても、同じような働きは出来たでしょう。
でもフローは自分のまま、あるがままで飛び込み、懸命な努力で着実に道を進んでいきます。
そうして認められている姿は、これこそがデオンとフローの決定的な違いであり、デオンが進みたかった道なのではないでしょうか。
ゴーストは人間を殺せば塵になって消えるというのが舞台版の追加設定で、デオンはずっとゴーストとして生きていたい訳ではなく、自分の納得のできる最期を求めて彷徨っている状況です。
早くこのゴースト生活を終わらせたいなら誰でもいいから目に留まった人間を殺せばいい事ですが、それはデオンの納得する最期ではない。
デオンは非常に気高くプライドの高い気質。
そんなデオンにとって、フローがどれだけ絶好の相手だったかというのがここにある気がします。
更にはこの「(ゴーストとしての)呪いを断ち切る手段は2つ。人間を殺すか、他のゴーストに剣で心臓を貫かれるか」という舞台版で新しく追加されたルール。
原作では少なくとも人を殺す事に関する制限はないので、それこそデオンは過去にたくさん殺してきているようですが、この追加設定が非常にグレイとデオンの行動理由にうまく肉付けしてくれていると最初の観劇時から思っていました。
ですが。
今になって、このルール、本当に正しいのかなと疑問に思います。
いや、正しいのかなというと語弊がありますね。もちろんこの提示されるルールは正しいのですが、そのルールが全てなのかな、不足はないのかな、といy事です。
グレイとデオンがそのように語っているだけで、例えば神様みたいな存在がそのように明言している訳ではなく、グレイもデオンも「気がついたらこの姿(ゴースト)になっていた」だけであって、
ゴーストという存在のルールブックみたいなのがあってそれに従っているわけではなく、ゴーストとして彷徨ってる中でどうやらそうらしいと掴んだルールだと思うんですよね。
そもそも彼らと同じゴーストが他にどのくらい居るのか。たくさん居るのか、実はお互いくらいしか居ないのかもわかりません。
もし仮に、実はこのゴーストの末路2つが、正確ではないとしたら。これは完全に私の思いつきの想像ですが。
例えばもっとシンプルに、実は満足するかどうかが末路(イコール成仏)の条件だとしたら。
デオンはラストの雪山のシーンでグレイと戦い、剣で貫かれて塵となります。
グレイは中盤では「お前、女だったんだな」「マダーム・デオン」などと言って、女であることを馬鹿にしているような(少なくともデオン自身はそう感じるような)言葉をかけ、デオン様の地雷を踏み抜きまくるわけですが、
最終決戦では「フローを信じ守りたいグレイ」として「フローを狙うデオン」に全身全霊で戦いを挑みます。男も女もなく、互いがそれぞれ個人として。
直前フィッツジェラルドに対抗出来ないくらい霊気が足りていないのに、それでも全ての力をかけて。
そのようにして負けた事が、つまり偽りの姿に男としてでもなく、女として見下したり手加減したりするのでもなく、デオン個人としてグレイが全霊で戦ってくれたという事が、デオンの未練をようやく断ち切り、「悪くない」と満足できる最期をもたらせた。
ここから先は願望なのですが、もしその満足や納得がいわゆる成仏の条件だとしたら、グレイの処女作『ゴースト&レディ』をやり遂げたグレイにも、成仏のチャンスがあるのではないかとも思うのです。
グレイが何を望んでいるのか。
この『ゴースト&レディ』を作り上げ、誰かに、フローにも見せることが今の願いなのか、この先もずっとこの物語が愛されフローレンスナイチンゲールが讃えられ、たくさんの人が後に続いていくのを見守るのが願いなのか、それ次第にはなるのですが。
もし前者だとしたら、最後の客降りはある意味、グレイも納得する最期を迎えられたということにも捉えられませんか?
先日泰潤さんグレイを拝見した際、
終盤で何度か帽子を脱いでいるのが印象的でした。
①フローへのサムシング・フォーで「お前と出会ってひでえ目にあったけど 面白かったぜ ありがとうな」というシーン
②シェイクスピア引用で「ただ夢をみたと思って お許しを」と結びの挨拶をするシーン
③客席に降りて歩き出す前、一度舞台を振り返った時
この3回、ほんの短い時間に3度帽子を脱いでいました。
恐らく萩原さんはやっていない、泰潤さん独自の演じ方なので、お一人だけの演じ方で考察するのは違うのかもしれませんが。
脱帽とは、例えば目上の人と接する時や挨拶の時、つまり礼儀を重んじる時には帽子を一度脱ぐのがマナーとされています。
①は言わずもがな、フローへのプロポーズ、愛の告白、お礼とそして別れという一番の礼を重んじるシーン。
②は処女作の初日を見届けた私たち観客への、作家グレイとしての挨拶。
そして、③。今まで通りシアターゴーストのグレイで居続けるのであれば、これからもドルーリーレーン劇場で芝居を見続けるのでしょうが…。
私は③のシーン、まるで劇場にも別れを告げているように見えて。
生前迷い込んだきらめく世界、死後もずっと離れず、「舞台だけが俺を慰めてくれる」とまで言っていた、長い長い間世話になった場所に、さよならをしているような表情に見えました。
そのまま劇場を彷徨うままでいれば、この『ゴースト&レディ』が大ヒットし、今まさにそうであるようにたくさんの人からこの物語が愛されるのを見守り続け、舞台の中でだけはフローと出会えるでしょう。
だけど、舞台を降り、去っていくということは、劇場からも離れ、つまりは成仏、行くべきところへ行くのかもしれません。
原作者の藤田先生は、最後はグレイとフローは別々の場所へ行かなければならないと強く主張したそうです。
原作はもちろんそういう終わり方ですし、舞台版もそのような終わり方になるように強く申し出たと。
だから、仮にこの私の考察通り成仏していたとしても、フローと同じ場所にはいけないでしょう。
簡単にいうと天国と地獄という2つの世界があるのだとすれば、フローは天国へ行き、生前人を殺してしまったグレイは恐らく天国にはいけない。
それでも、この世界でほとんどの人には見えないゴーストとして孤独に彷徨っているよりは、然るべき世界で罪を償えればいつかは、また次の新しい世界へ行けるのではないかと思うのです。
つまり、ゴーストの末路は2つ。
永遠にこの世を彷徨うか、塵となって消えるか。
孤独にこの世に残り続ける前者の方が呪いであるならば、塵となって消える(イコール成仏)の方が救いであり、
その為の手段は2つ。人間を殺すか、他のゴーストに剣で心臓を貫かれるか。
そしてもしグレイとデオンも知らない3つ目の手段、「未練を全て断ち切り自分の最期に納得する事」があるのだとしたら。
ようやく彼も救われる時が来たのではないかな、と思うのです。
グレイが客降りした後、もう一度舞台上に現れるフローは優しい笑顔でグレイの背中を見送ります。
誰も1人ではいかせない、ジャックをひとりでいかせたくなかったという彼女のあの心からの笑顔は、
グレイの「フロー、見てたか?」への答えであると同時に、ゴーストのまま置いてきてしまって心残りだったであろうグレイがようやく次の世界へと旅立つところを見送れたことへの表情。であったらいいなと思うのです。
長々と妄想を散文となってしまいましたが、
皆様方のお気に召さずば、ただ夢をみたと思ってお許しを。
私の手持ちチケットもあと1枚。
キャストはどなたになるのか、
そして舞台は生ものですから、その日どんな舞台になるのか、
大切に、見届けたいと思います。