鴨川デルタ

京都下宿叙事文

人間の記憶というものには限界がある。既に我々の記憶容量は、肌身離さず持ち歩いているこのスマホというものに敵わない。僕もいずれ忘れていくのだろうかと思うと幾分か悲しい。いや、すこぶる悲しい。それほど、僕が京都で過ごした日々は愉快で楽しかった。勿論、楽しいことばかりではないのだが、それらも含めて大切な思い出として残しておきたいと思う。それ故に僕はインターネットという手段を用いて書き記すのである。
先に断っておくが、これはただの大学生のノスタルジックな日記であり、京都に住むってどういうことか知りたいだとか、日帰り京都観光のお勧めが知りたいだとか、そういう方々のお役に立てるような文章ではない。あくまで、ごりごりに主観の入った、僕が読み返すためのもの、或いは、僕と仲良くしてくださった方々への感謝を形にしたようなものである。
少々前置きが長くなってしまったが、早速始めようと思う。

僕が京都に越してきたのは2015年の3月だ。
いわゆる受験戦争を乗り越え、第一志望校への入学が叶ったのだ。それはそれは大学生活(しばしばモラトリアムと言われる)が楽しみで仕方なかった。下宿先に選んだのは下鴨神社から徒歩5分、大学からは遠い古びたアパートだった。ここから僕の4年間が華々しくスタートした。

手始めに近所の散策から始めた。勿論、最初に訪れた地は下鴨神社である。そして、参道まで歩くと糺ノ森がある。

糺ノ森は下鴨神社の境内にある社叢林である。夏には古本まつりも開催され、様々なジャンルの古書約80万冊が販売される。

歴史を感じさせる木々たちが空を覆い隠し、荘厳な雰囲気を醸し出していた。僕は身震いしたのを覚えている。なぜか有名な寺院や神社でもなく、この森林を見て、京都を感じたのだ。というのも、糺ノ森が高校時代に読んだ森見登美彦氏の作品「夜は短し歩けよ乙女」の舞台の一つだったからである。以来、僕は主人公を自己投影し、目的もなくここに訪れた。糺ノ森は僕にとって心の平安を与えてくれるお気に入りの場所になった。

「夜は短し歩けよ乙女」といえば、もう一つ有名な地がある。鴨川デルタである。

鴨川デルタは出町柳の鴨川三角州で、東から流れてくる高野川と西から流れてくる賀茂川の合流地点である。4月になると大学生たちがサークルの新歓を行うために、夜な夜な集まりブルーシートを広げている。

春になれば大学のサークルの方々が新入生を獲得しようと、ここで新歓パーティをしているし、夏になれば小さな子供達が水遊びをしている。暖かい日の夕暮れにはどこからともなくトランペットの音色が聞こえてくる。ここには日常の延長線上にある幸せがたくさん詰まっている。そんな鴨川デルタでの一番の思い出は鍋をしたことである。

2018年9月のことだ。その頃の僕は「なんか面白いことしたい!記憶に残ることがしたい!」が口癖だった。その気持ちは今も変わらないのだが、鴨川デルタで鍋を思いついた時は、我ながら最高の企画だと思ったものだ。ただやはり気になるのは鴨川で鍋をするという行為が条例に違反していないかということである。内定先も決まっており、ここで警察のお世話になるのは流石に避けたかった。早速調べてみる。すると、ネットには「バーベキュー等の禁止...禁止する行為/火気を用いて食品を焼く行為」と書いてある。鍋は?食品を"煮る"行為ではないか!!!条例にも反していない、鴨川デルタで食べる鍋なんて絶対うまいに決まっている。早速取り掛かった。

美味しかった。いや、正確には味など覚えていない。ただ夜空の下で川のせせらぎを聞きながら食べる鍋が忘れられない思い出として残っていて、美味しかったという情報を付け足しているのだと思う。大学生という生き物はつくづく阿呆な生き物だと思うのだが、こんな無茶なところが大学生最高たる由縁である。

無茶なことといえば、僕の一つ上の先輩はそれはもうたいそう無茶な人だった。
ある日その先輩を含めた5人ほどで、例の如く大学近くの居酒屋で飲んでいたことである。だいたい腹も満たされ、全身に酔いが回ってきた頃だ。普通ならそろそろ解散するかといった頃合いである。しかし、その先輩はこう言った。「山登ろうぜ」僕は耳を疑った。24時も近い、健全な人間ならばそろそろ床に就き、就寝する時間である。「山ですか...?」先輩は続ける。「確かに今から山を登るなんて面倒くさいし、辛いからやりたくないと思うかもしれない。だけど、こういう馬鹿みたいな事は1ヶ月後、いや、1年後かもしれないが、最高の思い出になるんだよ」なるほど...とは決して思わなかったが、一度言い出したら聞かない先輩の性格上、僕は首を縦に振るしかなかった。メンバーを集い、(途中で逃げ出した人たちもいる。当然である)早速僕らは真夜中の登山へ出かけた。ここでいう山とは、大学がある烏丸今出川の交差点から約3kmほど離れたところに位置する大文字山のことである。お盆に行われる送り火(かの有名な京都五山送り火である)で「大」の字が浮かび上がるところといえば、大半の人は分かるかもしれない。僕らは自転車に跨り、ゆっくりと大文字山を目指した。
ふもとまで到達し、登り始める。すでに日付は変わっていたが、ほろ酔いな僕らは完全に無敵状態になっていた。1時間も掛からず、目的の「大」の部分に到達した。そこから見下ろす京都は僕にとって忘れられない景色になった。

ちなみにこの写真は当時撮影したものではなく、この文章を書くために一人で登り、撮影したものである(当時撮影した写真はiPhoneの買い替えとともに消え去っていた)。全く先輩もいい迷惑である。京都の忘れられない景色を僕に教えてしまうのだから。最高の思い出になりましたよ、先輩。

帰る頃には、夜中の3時とか4時とかだったと思うが、次の日は1限からの授業に出席した。我ながら優等生である。

そして、そんな無茶苦茶な先輩は銭湯が大好きで、僕も何回か誘って頂いた。京都は一人当たりの銭湯数が全国でも多い方で、京都で下宿を始めて以来、銭湯を身近に感じるようになった。僕は特別に銭湯が好きというわけでもないし、むしろ熱い湯に浸かるのは苦手だったが、先輩や後輩と行く銭湯は好きだった。サウナで我慢対決をしたり、交代浴最高だとかなんとかで、水風呂と温かい湯を交互に浸かったりした。もちろん風呂上がりのコーヒー牛乳も忘れてはいけない。

よく行った銭湯。名前は知らない。昔ながらの銭湯で、人々の憩いの場である。しかし、近年銭湯の数は減ってきており、この銭湯もいつかなくなってしまうのではないかと心配になってしまう。

僕の日常は先輩や後輩、多くの友達たちを中心に回っていた。日常の多くでそう感じていたし、何より誰かと過ごす時間が楽しかった。
それでもやはり、誰とも予定がない日はある。そんな日は多くの場合、寺町京極商店街へ出かける。僕は2回生の終わり頃に、下鴨神社付近の下宿から京都御苑の南西、烏丸丸太町に引っ越していて、寺町京極商店街は歩いて行ける距離になっていたのだ。ここら辺りは京都のいわゆる繁華街で、多くの人で賑わっていた。ここで映画を観て、ぶらぶらして帰るという流れが僕のお気に入りだった。

ここは新京極商店街。ここにあるムービックス京都に足繁く通った。

そして、この繁華街(会話では大体「四条行こうぜ」と言われたら、ここら辺りを指す)では、よくお酒も飲んだ。僕はそれほどアルコールに強い方ではないが、大好きな人たちと飲むお酒は好きだった。

僕の大学生活の中で最も好きな写真の一つ。錦市場で開催された飲み会後。謎の一体感がある。最高。

そして、四条で飲んだ後は、"鴨チル"というアフターも京都の大学生には定番である。"鴨チル"とは「鴨川でチルアウトをする」という意味で、簡潔にいうと、鴨川でお酒を飲む事である。くだらないと思うかもしれないが、僕にとって鴨チルをしている時は完全に街をハックしているような感覚があり、とても愉快だった。時間は決して止まらないが、僕らは時間を永遠にできるのだ。

ちなみに京都用語は鴨チルの他に、"鴨川等間隔"と呼ばれるものもある。これは各カップルが鴨川の土手に等間隔に腰を下ろすというもので、暖かい季節になると見られるようになる。

鴨チルさえしてしまえば、立派な京都大学生の仲間入りだが、もう一つ、僕たちが愛してやまないものがある。それはラーメンである。僕は高校時代、ラーメン屋でラーメンを食べるということに魅力を感じていなかった。しかし、京都に下宿を始めてからそれはいとも簡単に覆った。それは、僕が京都に越してきて数ヶ月経った頃だった。とある先輩から「一乗寺って知ってる?」と聞かれたのだ。いちじょう寺...?どこの寺なんだ?初めて聞く寺院の名前に困惑していると、先輩は続けた「一乗寺ってのはな、京都じゃ有名なラーメン激戦区で小さなエリアにラーメン屋が所狭しと並んでるんだよ」と。なるほど。それは興味深い。僕はその先輩が大好きだという一乗寺の池田屋というラーメン屋に連れて行ってもらった。曰く「ここの焼豚はほろほろで美味しいぞ」とのこと。

チェーン店のラーメン屋しか知らなかった僕は、この古びた外観を見て、本当に美味しいのか?と懐疑的になっていた。しかし、それが全くの誤解であったことは言うまでもない。

30分ほど並んでから、ようやく着席すると、間もなくラーメンが目の前に置かれた。所謂二郎系ラーメンと呼ばれるもので、どんぶりいっぱいにもやしが盛り付けられ、その上には脂がドロリと乗せられていた。一口食べただけで分かった。これは美味しいやつだと。先輩の方を見ると、だから言っただろ?と言わんばかりに得意げな顔をしている。僕はその日以来、その先輩を師匠として奉り、たくさんのラーメン屋に連れて行ってもらった。

ところが、その先輩が卒業して以来、僕はラーメン屋から足が遠ざかっていた。そんな状況を打破したのは、後輩だった。僕は部活をしていて、その活動が昼に終わるため、昼御飯を何にするかは部活同様、大切なテーマだった。定番な昼御飯のラインナップは、マクドナルドやすき家、宮本むなしにCoCo壱。さぁ今日はどこになるかなと思っていた矢先、その後輩は「にぼ次郎に行きませんか」と言い出したのだ。にぼ次郎だと...?あの大学から徒歩3分のところにあるあんまり混んでないラーメン屋、にぼ次郎に...?後輩は続けた。「僕久しぶりに行ったらハマっちゃったんすよね〜。味濃いのが好きな先輩なら絶対ハマりますよ」と。絶対ハマると言われたら行くしかない。僕はその後輩を信じ、にぼ次郎へ来店した。

これもまた二郎系のラーメン屋。僕らが注文するのは決まって「もり次郎」という油そばだ。ちなみに写真からも分かる通り現在は「にぼ次郎」から「THE JIRO」へ店名を変更している。それでも僕らの中では永遠ににぼ次郎である。

筆舌に尽くし難い美味しさであった。初めて食べた池田屋に匹敵するほどである。後輩の方を見ると、ね?言ったでしょ?と言わんばかりに得意げな顔をしている。以来、僕たちの中で部活帰りのにぼ次郎が一大ムーブメントとなった。

ここまで読むと、大学で学んだことあるの?と疑問に思う方々もいるかもしれない。勿論僕は大学でもしっかりと講義に参加し、意欲旺盛に学問に取り組んだ。

僕の大学である。敷地は狭いが統一感のある校舎が僕は好きだ。

僕が最もお世話になった校舎の一つである良心館。かつてこの校舎の教室402では...続きはウェブで。

単位は一つしか落としたことがないし、ゼミでは政治学科であるにも関わらず、仮想通貨を研究テーマにして、なんとか乗り越えた。そして、最も難関だったのが、第二言語のドイツ語である。同志社大学では入学後、先輩に履修を相談すると必ず言われることがある。「第二言語はロシア語がいいよ」と。第二言語は、中国語、コリア語、ロシア語、スペイン語、ドイツ語から自由に選べる。そして、新入生が自由に選んだ結果、毎年ロシア語だけ異様な倍率の抽選になるのだ。無論僕も光に集まる虫の如く、ロシア語の抽選に参加した。そして、外れた。僕は3回生の秋学期までドイツ語を引き摺った。

大学の講義に出席すると、やはり退屈だなと思う。意欲旺盛に取り組んだというのは嘘だ。だいたい友達とどのタイミングで退出するか企んでいた。僕にとって学びたいことは、講義室にあるのではなく、講義室の外、大学を飛び出した「京都」にあるのだ。僕らは常にノリと勢いで生きていた。

ノリと勢いで行動すると、不思議なことに記憶に残ることが多い。
とある夏の日、僕と後輩は午後から琵琶湖まで出かけた。目的地は白髭神社で僕はロードバイク、後輩はママチャリだった。京都から片道50km、往復100kmは部活で鍛えていた僕らならノリで行ける距離だった。

琵琶湖と後輩。汗だくになりながらひたすら漕いだ。ママチャリという手段は僕たちに地獄を見せてくれた。帰ってくる頃には日が暮れて、疲労の蓄積は部活以上であった。

ノリは人生を豊かにする。このテーゼはそろそろアメリカの有名なシンクタンクによって名誉ある科学誌に発表されるだろう。京都から飛び出し、記憶に残っているエピソードはまだある。

「どっか行こうぜ」そんな感じで招集がかけられた僕は夕方から、彼らが乗っているレンタカーに拾われた。どうやら昼前からレンタカーで京都をぶらぶら回っていたらしい。「どこ行くの?」と僕が尋ねると、「今から決めよう」と返答された。そして、ノリと勢いが思わぬ方向に舵を切った。「じゃあ鳥取砂丘で!」誰が言い出したかは定かではないが、僕たちは夕方から鳥取砂丘に向かうことになった。勿論出発は京都である。何度計算しても鳥取砂丘への到着予定時刻は24時を指し示したが、むしろそれが良かった。僕らは誰もいない砂丘ではしゃぎながら花火をした。

24時過ぎの鳥取砂丘。後片付けまでしっかりしたので、大目にみてください。

僕は大学生活を京都で送ることができて本当に良かったと心底思う。こんな楽しい生活を送ることができたのも、よくしていただいた先輩、他愛もない話で盛り上がれる友達、慕ってくれた後輩、そのほか、僕に関わってくれた全ての人がいたからで、1人ではあり得なかった。これからも末長くよろしくお願い申し上げます。そして、何より、両親には感謝してもしきれないので働いて親孝行をします(ここが1番大事)。


これほどまでに楽しかった京都での学生生活ももう終わりだ。寂しくないと言えば嘘になる。だが、これまでの人生がこれほど楽しかったのならば、これからの人生もきっと楽しいはずである。そう思うと、まだまだ人生を味わい尽くせていないような気がする。人生をフルコースで深く味わい尽くすぜ!ありがとう京都!!

春から東京にいるので、東京に来る方、東京にいる方、お手柔らかによろしくお願いします。


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Yohei Sassa
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