無名の天才(記憶の中の手本)
「好きこそ物の上手なれ」
その道を好きでやってる人にはこの上ない至極の言葉なのだろうが、嫌々やってる方にはたまったものではない。本当の殺し文句になる。
ティ、ティ〜ティラリ〜ティラリ〜♪
ダッ、ダダッダ、ダッダッダン!!
チャン、チャカチャン、チャカチャンチャン!
ちょうど月が頭上に周る頃、突然の沈黙を破って一斉に笛・太鼓、手平鋲のお囃子が山の上から雪と共に舞ってくる。
2月17日深夜0時。
この日、「1番札」を目指し山に吸い寄せられた十数組の「えんぶり組」が、待ってましたとばかりにお囃子をかき鳴らす。
暗闇に「パチッパチッ」とかがり火しかなかった「新羅神社」の鳥居前が、ライトアップで俄に明るくなると、名誉ある「1番札」の権利を受けた「えんぶり組」の「奉納摺り」が始まった。
ここは、静かに雪の舞う「新羅神社」が鎮座する「長者山」
暖冬と言われる今日だが、それでも北国の2月は別格。厳しい冬の真っ只中の光景は、荘厳であって、儚くあり、そして美しい。
短い春を待ち焦がれ、今年も「えんぶり」が始まる…。
「おっ父」はお祭り男だ。
夏は「八戸三社大祭」
冬は「八戸えんぶり」
1年中、祭りか酒を飲むか。
片手間に仕事をしてるようにしか見えない人。
そんな家だから子供はもちろん祭り強制参加。
夏の「八戸三社大祭」はまだ良い。「おっ父」だけで済むお祭りだから。
さすがに「行きたくない!」と訴える我が子を無理矢理連れて行く事はなくなった。
問題は冬「八戸えんぶり」だ。
うちの「ご長男さん」は「おっ父」譲りで祭り好きだからまだ良い。
私は祭りは「観て楽しむ」感性を持っている。
極度の人見知り、恥ずかしがり屋は決して演舞する側ではない。
しかし冬は「おっ母」も飯炊きの手伝いに駆り出される。
低学年の私を1人家には置けないと、家族4人は「えんぶり宿」に出向いて行く。
小学2年だったか3年だったか、舞子としてデビューした。
当時「八戸一」と言われた舞の師匠に、
「こんなもんだべなぁ。」
と、及第点?を貰ってえんぶり人生スタート。
季節は極寒だが、人前で踊るのは顔から火が出る程恥ずかしいから、思いの外寒さは気にならない。
そんな事より早く舞を終える事だけを考える。
そういう意思と行動が反比例する舞がウケたのか、想像以上に御祝儀を頂いた(金額は秘密)。
中学2年まで踊った。あとを継ぐ次の子供が見付からなくて。。
今思えば、当時から後継者不足は始まってたのだろう。
実際、その十数年後には「内丸えんぶり組」存続の危機があったと後から聞いたから。
中学3年にしてやっと舞子を卒業。
しかしガタイの良い「若ぇもの」をほっとく訳がない。
今度は「太夫」としてデビュー。
これがしんどい!
1〜2kg(大袈裟!)はある「烏帽子」を頭に被り、落ちないように布で2重に縛る。
すぐにコメカミが悲鳴をあげて、我慢しようものなら、顔面蒼白、冷や汗ダラダラ、貧血起こして倒れてしまう。
「烏帽子」は、えんぶりの神様が宿る。
地につけたり雨に濡らす事は御法度!
この時、世の中には理不尽な「忍耐と我慢」が存在する事を学んだ。
高校卒業するまでの4年間、「太夫」の人生は苦痛でしかなかった。
楽しい思い出ないの?
「えんぶり」に楽しさを求めてはいけない。
神事なのだから。
腰を落として、右から左、左から右と、大きく、そして低く烏帽子を摺る(振る事を「摺る」と言う)と、よりダイナミックに観える。
小さい頃から「おっ父」の摺りを見ているが、体は人一倍小さいクセに、摺ってる姿は人一倍大きい!
不思議な逆転現象。
考えたら、「おっ父」は私に太夫の在り方、摺り方を1度もご教授してくれた事はない。
全て別の人から教わった。
そのクセ、
「こごぁこう!」「そごぁこう!」
ダメ出しのオンパレードしかなかったな。
高校最後の「えんぶり」で事件は起きた。
4日間、烏帽子を被り続けさせられてしまう。
大の大人でも半日被れば悲鳴を上げる太夫の所作。
ガタイは良くてもまだ高校生。
体が出来ていない。
いつも大人しいさすがの私も、堪らず交代を願い出るが、大人達はニヤニヤ笑いながら、
「次も被れ〜!」
瞬殺。
齢17にして、始めて「殺意」と言う感情が芽生える。
決して大袈裟な物言いではない。
それ程、「太夫」をやり通す事はキツい。
この年齢で4日間「烏帽子」を被り通した高校生は、八戸中探してもいないだろう。
後にも先にも私しかいない。と断言出来る。
苦しんでる私を見て、周りの大人達は面白がっている。
太夫を行う事に比例して、どんどん「えんぶり」が嫌いになる。
加速度的に。
そんなある晩、たった1度だけ「おっ父」が、
「本当はこうして烏帽子は摺るんだ!」
って、両手を伸ばして大きく摺る仕草を見せてくれた。
とは言え、大きく摺ろうとすれば烏帽子が飛びそうな感覚になるから、ついつい手で烏帽子を押さえて摺ってしまう。
実際「おっ父」だって烏帽子を手で押さえて摺るクセに。
「そんな余裕ねぇし!出来るかっ!」心の声が思わず駄々漏れしたっけ。
2日目。一応交代を申し出るが当然ない。
3日目。人生で「諦めの境地」を学ぶ。
4日目。もう意地。
終了。達成感とかはまるでない。
やっと解放されたという脱力。
就職で、横須賀に行く事が決まっていた私は心に誓う。
「えんぶりなんか2度とやってやんねぇっ!!」
平成に変わって1度目の春…
念願だった、「えんぶり」と
ようやく「サヨナラ」出来た。
それから何年かして、何度かえんぶりに誘われた。
「よー、助ねぇ(手伝いを「すける」と言う)どぅ?」
「やらねぇ」
「よー、助でけねぇがぁ?」
「だれぁやるざぁ。」
それっきり誘われなくなった。
この時、実は「内丸えんぶり組」の消滅がかかっていたらしい。人がいなくて。
「あんなクソ集団、なくなってもいい!」
そう思えるぐらい、私には嫌悪感しかなかった。
今から15年前、「おっ父」は倒れた。
病名「脳梗塞」
「おっ母」が亡くなって、ろくに飯を食わず、酒と祭にだけ生きた代償。
大好きな祭りに参加出来なくなった・・・。
想像しない人物から、ふとした拍子に「内丸えんぶり組」に誘いがかかる。
「よしくに、昔内丸でえんぶりやってたんだな!今度顔見せろよ!」
「ん?なんで??なんで知ってんだ???」
どうやら昔の写真で私を見つけたらしい。
2度とやるまいと誓った「えんぶり」。
しかし意外と体育会系の私は悩んだ。
先輩の誘いは断れない。
けど「えんぶり」はやりたくない。
困り果て、唯一の理解者に相談した。
「私、えんぶりに憧れあるんだ!
あなたえんぶりやってたの!?
一言も言わないから知らなかった!
烏帽子被ったトコ見てみたい!!」
唯一の理解者の言葉で腹は決まった。
二十何年ぶりに観る「えんぶり」は意外と新鮮だった。
かつて私を地獄に落とした大人達は、何事もなかったように私を迎えた。
ちょっと虫唾が走る。
私を「えんぶり」嫌いにさせた大人達は、全く覚えていない風だ。
ただ、最古参の長老の
「よしくに!良ぐ来たな!
いやぁぁ、本当にありがとうっ!!」
この一言で、何か救われた気がした。
久しく観なかった内丸の「えんぶり」は、全く様変わりしていた。
太夫も舞子も、驚く程ヘタクソだ。
「やっぱり出来ないかも…」
別な意味でなんとなく胸が苦しくなった。
あんなに苦しい思いをして解放されたのに、また別の苦しみを味わう事になるとは。
ブランクがあるとは言え、この私がいきなり教える立場になった。
確かに周りを見渡しても、私程「舞子」を務めたり、「烏帽子」を被った大人達は居ない。
30年以上経つ、、、皆ほとんど亡くなっている。
教えてくれる人はいないけど、誰かに教え伝えないといけない。
教わってないから教え方が良く分からない。
葛藤と責任。いや、もっと単純。
好きになれるか嫌いなままか。
誰かに教えると上達する?
数十年振りに被る烏帽子は意外と新鮮だった。
年をとって体が出来ているのか。
自分で被れるようになったからか。意外な程、簡単に「おっ父」があの日唯一教えてくれた理想の太夫に近い「形」が実現出来た。
誰も私に教えてくれる人はいない。
終わりのない太夫の「形」。
理想を求め日々精進。
あの日、たった1度見せてくれた「おっ父」の、太夫としてのあるべき「形」。
古い古い記憶を手繰り寄せて、どうにかその「形」と、小さい頃観ていた「おっ父」の「摺り」の形を合わせ、自分の体に擦り込む。
まだまだ敵わない。
悔しいぐらい偉大な「おっ父」の太夫。
ちゃんと聞いておけば良かったかなぁと思う時もあるけど、後悔はしていない。
だってあの時、間違いなく私は「えんぶり」が大嫌いだったから。
2021年は、コロナの為中止になりました。
来年こそは。。。