【考察】ナレッジシェアには意味がないのではないか?
「ナレッジには価値がある。」
ナレッジシェアという活動はこのポジションに立って推奨されたり行われたりするものだと理解しているが、果たしてそうなのだろうか?
一次、二次・・・と情報が流布される中で、インプットとしてのナレッジの価値は目減りするだけでなく、うわべの解釈、誤解と乱用、思考停止やポジショントークの助長、、などなど
言われてみれば、デメリットも目立つような気がしてくる。
もしかして、思っている以上にはナレッジと、ナレッジをシェアするという活動には価値がないのではないだろうか?
ということについて考察をしてみる。
筆者のポジション
タイトルを見て、何くそ!と鼻息荒く踏み込んでこられた方には大変申し訳ないことをしてしまった。
今回、
「ナレッジ及びナレッジシェアには価値がある」
というポジションで書いていきたい。
ナレッジシェアの無意義性と原因
冒頭書いた通り、ナレッジをシェアする過程では
・ナレッジの伝聞による価値の目減り
・不十分な解釈や誤解の拡散
・うわべの活用
・本質外の部分を抜粋され、一定のポジションや理屈で便利に使われる
などの問題が起こり得る。
また、むしろナレッジシェアをした人が一番実感していることだと思うが
シェアしたナレッジについて、
・自分ほどには感動、感化されていない
・ちゃんと聞いてるのか
・反応が薄い
・その後の変容が見られない
・前紹介したのに忘れている
こういうことはよくある。
この原因としては、シェアする自身側と相手側とのギャップが考えられる。
情報を同じレベルで受け取るのに必要な前提知識や理解レベルにない
(段階,レベルのギャップ)価値観そのものやこれまでの境遇や経験/体験によって感じ方が違う
(文脈、コンテキスト,関心のギャップ)
前提知識がなければ単純化、一般化して捉えるしかなく洞察できるものが少なかったり、
関心ごとや課題意識がちがければ今欲してるものではなくリアクションができなかったり、価値が高いと思うか低いと思うかも異なる。
これは、かなりコミュニティや環境を絞らなければ避けようのない構造的な問題に思う。
では、ナレッジシェアにはやはり価値はないのだろうか?
ナレッジシェアの価値
ナレッジをシェアすることの価値はなんだろうか?
よく思い起こされることとして、
誰かや自身への"インプットとしての価値"があり、こればかりに意義を求めてしまっているのではないかと思う。
もちろんそれ自体はナレッジの主要な価値ではあると思うが、ナレッジのシェアに視点を広げると別の価値も生まれると考えている。
1.インプットとしてのナレッジの価値
まずはナレッジ、それ自体の価値について。
伝聞の中でいくらかの割引率が見込まれてしまう点は否めない。
が、これは良いことを聞いた、という情報や、妙にしっくりきて自分の思考がハッキリしたり前に進んだりする経験は誰しもあるだろう。
いくら割引率があるとしても、
やはりいくらかは伝わる可能性があるし、
先ほどあげた2つのギャップ(レベルや関心)の性質上、別の価値として伝わる場合もある。
デメリットの方が大きいかどうか、はナレッジ自体の質が重要になってくる。
いかに恣意的でなく、スタンスが明確で、コンテキストに沿った情報が詰まっているか、
こうしたナレッジを作ったり、質をみたうえでのシェアであれば、価値が100%ではないにしても意味があると信じて良い。
問題は、シェアする人々が質を見抜いて伝聞ができるか、質をともなったシェアができるか。
嘘を嘘と見抜けない人には2ちゃんねるは厳しい、という理論と近い帰結になる。
2.シェアをする人に生まれる価値
ここからが本筋になるが、ナレッジにはインプットとしての価値の他に関係性に対しての価値が2つあると思う。
その一つはシェアをする側の価値だ。
平たくいうと自己理解と、自己表現。
Aさんがナレッジを意気揚々とシェアしたい、と思った背景には
・Aさんが当該の情報に共感したり、腹落ちできる段階(レベル)に達しているということ
・Aさんが当該の情報に近い価値観を持っていたり、関心を持つようなコンテキストにいる、ということ
といった意味が含まれている。
ここに自覚的になれば、Aさんは今どんなレベルにあって、次の課題はなんだろうか、と考えることや
周囲からすると、Aさんが詳しそうな知識カテゴリや、価値観や関心の方向性、の足しになる。
シェアをしたAさんは、自身の状況や成長課題に目を向けて次のアクションを考えられたり、過去の活動に自信を持ったり理解を深めることになる。
また、周囲からの作用として、配慮のある接し方を引き出せたり、Aさんの価値を引き出しやすい相談や機会が入ってきやすくなったり、関心ごとや課題意識の近い、将来の仲間から話しかけられることが増える。
3.シェアを受け取る相手に生まれる価値
2.の裏返しの部分もあるが
受け取る側としては、シェアをしてきてくれたAさんの様子、自分の感じ方や関心、理解の仕方の違い(ギャップ)を認識できる。
Aさんとの関係性によるが、そのギャップが自分にとってネガティブなものであれば、それを埋めようと情報を撮りに行くモチベーションになるし、
自分にとっては受け入れてよいギャップであれば、自分の価値観、考え方、関心ごとをより自覚的にでき、Aさんとの関係性を調整することができる。
また、シェアしたAさん側としても、
相手の感じ方や考え方、自分と異なる感想を持ったこと、または感想を持たなかったこと、が分かれば
何が分からなかったかを探って、前提となるレベルのインプットをするためのきっかけにもできるし、
価値観の異なる意見を持っていると考えて尊重しながら、相談や依頼をすることができる。
IT界隈のコミュニティや社内勉強会、外部講師の研修、などの場面で得られるフィードバックというのは大きくこういうものが多い。
「勉強になった」「わかりやすかった」「ありがとう」
感謝か、礼賛。
ナレッジとナレッジシェアをしてくれた、ということに対するリスペクトがある日本的な行動で美しいと思う。
が、もっと気軽に、感想としてどういうレベルの言葉がでてくるのか、またはでてこないのか、全体ではなく部分としてはどこに引っかかったのか、
こうした感覚的なものが流れ出てきたとしたら
ナレッジを受けた側にもその後に価値がうまれるし、
ナレッジをシェアしていきたいAさん側も次回のシェアをより良いものにできる。
現状多くのナレッジシェアにおいては、これを回収するための仕掛けや機会は多くなく勿体なく思う。
ナレッジシェアの価値は、ナレッジと人との摩擦
3点挙げたように
ナレッジはそれ単体が、価値を圧縮した情報という即面もあり、
その価値を高めていく活動や、価値あるものを広めていく活動というのは基本的に重要である。(1)
一方で、ナレッジシェアとは、ナレッジを媒介としたコミュニケーションという即面を持っており、
"シェアする人"と"シェアするナレッジ"
"シェアされるナレッジ"と"シェアされる相手"
との間に生まれる、自己理解、他者理解と、それによる行動変容のサイクルに価値がある。
と考えている。
つまり、ナレッジをただ共有するということではなく
"ナレッジと人との関係性によって生じる摩擦のようなもの"
を使って、その後、自身の行動、相手への行動に活用していくことがナレッジシェアの価値を高めることだと思う。
良質なナレッジ、ナレッジをシェアする人/ナレッジを受け取る人の価値につなげる仕組み、プラットフォーム、または文化といったパッケージングのシステムが求められると考えている。
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