エールの記事
私が研究者の道を辞めた話をしようと思う。
私は就活をタイミングに、自分が本当にやりたいことを選んで分野外の大学院に進んだ。そして研究留学で約2年、海外に住んでいた。その国の大学の研究員をしながら自分の論文を書くというスタイルで日々研究に没頭していたが、あるときから自分は本当にこのままアカデミックの世界にいたいのか、自問するようになった。
私の研究分野は障害学であり、自然と障害を持つ人々やそのコミュニティで過ごす時間が増えていった。ほぼ毎日彼らと過ごし、彼らの第一言語であるその国の手話でコミュニケーションをとった。
私は彼らが大好きだった。彼らは私のことを単なる外国人の同年代の女の子として受け入れてくれた。特別私の研究に興味も示さず、ただただ一緒に遊びまわった。
一緒にいることで彼らの文化やそれを取り巻く環境を自分のことのように体験した。彼らはものすごいスピードで手で話すから、私は必死で目で情報を得て自分も手を使って話をした。あるときいつものように彼らと終日遊び終わって帰宅したとき、アパートの共有スペースのテレビがついているのが見えた。だが、そのときの私の感覚としてはテレビがついているのが「見えた」だけで、音は全く入ってこなかった。その数秒後、自分が音の聴こえる世界にいるんだと思い出した瞬間、音が耳に入ってきた。それほどまでに彼らといるとき私は耳で情報を取っていなくて、視覚情報で一日を過ごしていたということだと思う。
そこまで彼らとつながっていられたことは私個人にとってはかけがえのないものだった。だが冷たい言い方をすると、彼らは研究対象の一部なのだ。
研究者でいるということは、自分の研究や論文のために外の人間、つまり客観性を持った評価者でなくてはならない部分があった。でも私は中の人間、当事者であり、実践者になりたかった。
アカデミックの世界で身を立てて成功していく道もある。これまでの先人達の、まさに血の滲むような研究があったからこそ、日本の教育水準の高さは保たれてきたのだということもわかる。ただ、研究と実践(現場)のギャップも痛いほど感じた研究生活だった。論文を書くために先行研究を読みあさり、論文を書くためのお作法に気をつけながら何年もかけて研究し、それが完成して世に出る頃には現場は変わっている。皮肉にも、日々変化する現場の中にこそ答えはあるとわかった研究生活だった。
研究職の方々を尊敬するし、私の大学院時代の友人には素晴らしい研究をして大学教授になった人もいる。それから、ここで偉そうに言ってはいるが、性格的に自分が研究者に向いてないなとわかったことも事実である。(研究生活の集大成である修士論文の内容はアカデミック的に見ると散々だった笑)
まあ、そんなわけでアカデミックからは離れたわけだが、それでも研究生活は私にとって人生で大事な時間で、大事なキャリアだったと自信を持って言える。人から見たら遠回りした人生に見えるだろうが、その分違う景色を見れたという素晴らしい体験は私だけのものだ。
人生に無駄なことはないとアラサーを目前に転職しようとしている自分に、これまで本当にやりたいことを選んでやってきた自分の人生を以てして自分自身にエールを送れるものだった、と結論が出た、嵐の前の静かな夜。