小説「ベーションマスター」
1
オナニーがオリンピック種目に追加されてから十七年の月日が流れた。
これまでの常識が一変し、世界的にオナニーの抜本的な見直しがなされ法改正も進んだ。
日本では主に性教育の充実と公然わいせつ罪に対する法改正が急ピッチで進み、人前でオナニーすることが許される時代に突入した。
義務教育ではきっちりとオナニーに対する教育が盛り込まれ、性犯罪が激減。
正しい性知識がより早くより確実に教育されたことで、少子化も解決。
極端にいえば、全裸で外を出歩いても許される時代になったのだが、当たり前のようにオナニーを見慣れた人たちにとって人の裸はさほど忌避すべき要素ではなくなったため、露出狂は事実上消滅した。
法改正当初、街にあふれていた全裸行進集団もいつの間にか鳴りを潜め、服を着る日常へと還っていった。
そうした人前でオナニーすることが当たり前の時代で〝ソレ〟は野球やサッカーに次ぐ子どもたちの新たな憧れの的として脚光を浴びることになった。
『ベーションマスター』
通称〝ベーマス〟は現在のオリンピック種目マスターベーションの愛称として広く日本中で浸透し、下は小学生から果ては社会人まで見る人の心を捉え、やがて多くのベーマス選手を世界へと羽ばたかせた。
この物語はそんな世界のごくありふれた高校での一幕から始まる。
私立聖碧高等学校。
桜が舞い落ちるこの日。新入生たちは新たな門出を迎えていた。
入学式が体育館で行われるため、みな意気揚々と体育館に吸い込まれていく。
ダルそうに歩くのは三年生の集団。新入生が珍しいのかチラチラとよそ見しながら歩くニ年生の集団。
そして、緊張という言葉を形にしたようなカチコチの陣形で現れたのはもちろん一年生。
今年から聖碧高校の一員となる新入生諸君であった。
「新入生の皆さん。ご入学おめでとうございます。春うららかなこの日に皆さんとともに学び、遊び、そして高らかにオナニーをしたい。そんな今日このごろ。我がベーマス部は新入生の入部を強く熱望するものである!」
「おい誰か会長を止めろ」
「先生、はやくアイツをなんとかしてください」
「また天雅か」
一人の生徒の登壇により慌ただしい入学式がはじまった。
彼の名は天雅優(てんがゆう)。聖碧高校三年にして現生徒会長の風雲児。
教師はもはや彼の奇行を止めることはなく、他の生徒も面白がったり、なんとか話をそらせようと必死になったりする。
新入生だけが状況についていけずぽかんと口をあけたままだった。
そんな慌ただしい入学式も終わってしまえば何のことはない。
おかしな生徒会長の噂だけが広がり、今年の新入生の間でも大いに話題になった。
しかし、肝心のベーマス部については誰も触れることはなく、そうして一ヶ月が過ぎ去った頃、一人の新入生がベーマス部の扉を叩いた。
「あのー……誰かいますか?」
返事がないので扉に手をかけると、スルリと扉が開く。
「なんだてめぇ……」
新入生の顔がひきつる。
中から出てきたのは機嫌の悪さを隠そうともしないニ年生。
その名を斗異頭心(といずこころ)。心は一年生をにらみつけると扉を勢いよく閉めた。
「…………」
あっけにとられた新入生はやがて踵を返し、その扉の前から離れていってしまう。
そんな新入生の横を素通りしながら走り抜けてきたのは噂の生徒会長天雅優。
優は部室の扉の前で一度立ち止まると、先程素通りした新入生が歩いていった方向を見やる。
今から追いかければベーマス部に迎え入れることができるかもしれないと思案するが、すぐにどうせまた心と衝突するだろうと半ば諦め気味に部室へと入った。
「また新入生を追い返したのか心。あれほど新入生がきたら丁重に扱えと言ったのに……」
「あ? 知るか。誰だお前って聞いたらあっちが勝手に帰ってったんだよ」
「まったく心はこれだから」
「なんだとてめぇ……」
これが彼らのいつものやりとりなのか、その口裏とは裏腹に二人の表情は穏やかだった。
しばらくすると二人はお互いにオナニーの練習を開始する。
ベーマス部の練習はどんなものかというと、特に他の運動部と大差はない。
優は上半身裸で筋トレを開始する。
そのすぐ隣で心は体を動かすことなく、椅子に座って文庫本を読み始める。
もちろんそのすべてが官能小説だ。
心のオカズは官能小説。やんちゃな態度や見た目とは裏腹な趣味といえるかもしれない。
「またそんな文庫本を読み漁ってるのか。たまには映像を見たらどうだ? マッスルAVはいいぞ」
「誰がそんなの見て抜くか!」
「ははは。またまたご冗談を」
優のオカズは筋肉ムキムキの女優ばかりでてくるアダルトビデオである。自身の端末に保存したマッスルAVを見ながら器用に腹筋している。
優は〝オナニーは筋肉から〟を信条に掲げており、筋トレはもちろんのこと、オカズに使うのはもっぱらマッスル系のAVだ。優レベルになるとAVでなくても普通の筋力トレーニング映像でも抜けるようになると豪語してやまない。
心にはまったく理解できない趣味だった。
グラウンドでは野球部やサッカー部の練習の声が響いている。
運動部の部室棟で練習しているのはべーマス部だけである。
部室棟は他の運動部にとっては着替える場所や備品を置いておく倉庫と化してるため、彼らが活動している間の部室棟はそれなりに静かであった。
「部長。先に箱使っていいか?」
「ん? ああ。かまわないぞ。俺はまだ筋トレのノルマがあるからな」
それを聞くや否や、心は部室の片隅に置かれていた何の変哲もない少し大きめのロッカーのような場所へ入っていった。
『ベーションルーム』
もはや公共のどこにでも存在するその箱は世間ではベーションボックス、オナニーボックス、抜き部屋など様々な愛称で呼ばれているが、要するにオナニー専用の部屋のことである。
ベーションルームが普及する前はトイレなどでオナニーをする人たちが増えてしまったということで世界中が衛生問題や性的事情を鑑みて〝オナニーだけ〟を専用に行える個室の開発に勤しんだ。
その結果生まれたのがこのベーションルームであり、オナニーに特化しているのでどんなに汚しても大丈夫なように様々な技術が結集した。
もはやひとつのアトラクションといっても差し支えないようなシステムの塊でその詳細を説明するには紙幅が足りないので簡単に紹介すると完全防水自動洗浄装置付き多目的ルームみたいなものである。
一昔前なら人間洗濯機と名付けられてもおかしくないような近未来的部屋のことだ。
人ひとりが入れる大きさぐらいなのでさすがに二人の人間がベーションルームに入ることは不可能である。
服を汚さないように基本的には全裸で入ることを推奨されているベーションルームにはもちろん衣服収納スペースが存在する。
あらゆる季節に対応しているためベーションルーム内の気温は一定に保たれている。
ベーションルームに入った心が服を脱ぎ、備え付けのオナホールを股下のほうにある穴にセットする。
公共の場合は自分でオナホールを用意する必要があるが、基本的には使わなくても大丈夫だ。古来より自らの手によってオナニーをする手淫と呼ばれる伝統技術が存在するためだ。
オナホールが一般に普及したとはいえ手淫が廃れることはなかった。
オナホールのセットが終わると自動で自らのペニスの位置に角度が調整される。
心はそこに甘勃起させたペニスを差し込むと、計測音が鳴った。
競技用ベーションルーム専用機能である。
そして機械のような音声がはじめますかと催促する。
心はそれに「ああ。いつでもいいぜ」と応え、音声認識により計測が開始された。
心は仁王立ちの姿勢で文庫本を読み始める。
それに合わせるように一定の速度でセットしたオナホールが心のペニスを上下左右にしごき始めた。
およそ十分ほどで心は射精を果たした。
「くそっ! おせぇ!」
計測音はなおも鳴り続ける。
一度射精しても、もう一度ペニスを入れ直せばまた最初から計測可能である。
心が得意とするのはスピードマスターベーション。射精までの速さを競う競技である。
日本では〝ハヤマス〟と呼ばれ、心はこのハヤマス競技において全国三位の実力者であった。
その後も何度か計測を試みるも、平均十分を切ることはなかった。
高校生レベルでの平均的な射精速度は十五分なので、心はかなり速いほうである。
だが心は不貞腐れたような顔でベーションルームから出てくる。
「たかが練習で何を熱くなってるんだ心は。いいからこれでも読んで頭を冷やせ」
そう言って優が心に差し出したのは誰でも抜けるマッスルAV入門という本だった。
心は無言でその本をはたき落とすと、部室を出ていってしまった。
「若いねぇ。さぁて……俺も箱を使うとするか」
自分とひとつしか年が離れていない心を尻目に、今度は優がベーションルームへと入っていった。
「モードチェンジ。コンテニューで」
優がそう口にすると、部屋の中で切り替え音が鳴る。
またも機械のような音声がはじめますかと催促する。
優が「ああ。たのむ」と短く答えると、計測が始まった。
コンテニューマスターベーション。三十分以内に射精した回数を競う競技のことである。
日本では〝レンマス〟として愛され、優はこのレンマス競技が大好きであった。
鍛えれば鍛えるほど射精の回数がきちんと増えるからだ。筋肉は裏切らないをモットーにしてる優にとってこれほど相性のいい競技は他にない。
レンマスにおいてはオナホールを使っても使わなくてもいいルールになっている。
なので優は自らの右手をペニスにあてがうと、一心不乱にしごき始めた。
オカズはもちろんマッスルAVである。ルーム内に設置されている画面に任意のオカズを登録することが可能なのだ。
予め登録しておいたお気に入りのマッスルAV百選を流し見しながら何度も射精を行う。
優はこの時間がとても大好きだった。
あっという間に三十分が経ち、計測終了の合図が鳴る。
「ふむ。二回か……少し堪能しすぎたかな」
三十分で射精二回は高校生レベルでは平均的回数である。
オリンピックレベルになると十回を超えることはザラにあるが、あまりにも激しく肉体を行使するため見た目は地味ながらとてもハードな競技であった。
優は練習後のストレッチをしながら心が戻ってくるのを待っていたが、結局心が部室に戻ってくることはなかった。
心という名前なのに精神的に少し弱い部分があるなと優は改めて思うが、これでも数少ないベーマス部の部員の一人である。
はやく新入生を確保しないと部の存在自体が危ぶまれる。
すでに部活紹介から一ヶ月が過ぎ去っている。生徒会長特権を使って入学式に一度大きめのアピールをしているが、ほとんどの新入生にとって〝アレ〟は部活の勧誘には入っていないようだった。
ポツリとポツリと新入生が見学にはやってくるが、心に威圧されてすごすごと退散していく者ばかり。
心に何度も注意はしているが、本人は別に意識してやってるわけではなく、勝手に周りが勘違いして帰っていくだけだと一点張り。
そうして新入生が一人も入部しないまま、他の部活に次々と先を越されていくのであった。
「さて心も戻ってこないし、今日は少し早めに帰るか」
ベーマス部の部活は少し特殊で、他の部活に比べて練習時間は少ない。
なぜなら基本的に一日に射精できる回数がそんなに多くないからである。
ベーマス部にとって射精こそが本番であり、射精回数こそが練習だからだ。
一流の射精コントロールを会得しているプロのベーマス選手でさえ一日にできる射精は決して多いとはいえない。
結論だけいえば、一日の射精回数が多い人間ほどベーマス部に向いている。
そんな人材が一体どこにいるのか。たかだか私立の一般高校に入ってくる人間に多くを求めるのも間違っている。
優はただオナニーが大好きな生徒が楽しくベーマスという競技に触れ合えればそれでいいと思っていた。
心がベーマス部に入ってくるまでは。
心がベーマス部に入部してからは状況が一変し、昨年の全国べーマス競技会では無名の一般高から三位入賞という劇的記録を打ち立てた。
個人ハヤマス競技において三位に入賞した心のおかげで聖碧高校のベーマス部は一時期注目を集めたものの、肝心の心がああいう性格のため多くの生徒たちと噛み合わず、その輝かしい実績とは裏腹に聖碧高校べーマス部は今廃部の危機に晒されている。
そう。今の聖碧高校ベーマス部の部員は優と心のたった二人だけなのである。