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世代間対立を扇動する玉木雄一郎の危険な公約 ー 若者の高齢者への憎悪と抑圧移譲

衆院選も大詰め。マスコミの情勢報道を見ると、今回、国民民主党が大きく議席を伸ばすと予想されている。朝日の最新(10/21)の情勢調査では、現有7議席を3倍増させて21議席になると書かれていた。国民民主の選挙での訴えは、課税最低年収(基礎控除+給与所得控除)を引き上げるという税制改正だが、もう一つ注目を浴びたのは、尊厳死を法制化して終末期医療の給付総額を抑え、若者の社会保険料負担を抑制するという「改革」案だ。この選挙公約が発表され、党首討論で表面化した途端、江川紹子らから猛烈な反発が出て、選挙の序盤戦での大きな騒動となった。要するに、終末期医療を受けている高齢者を安楽死させる法制を整備するという意味で、それによって医療費削減を図る社会保障「改革」だ。以前、石原伸晃が軽率に口に出し、猛批判を浴びて撤回した経緯がある。

早い話が、成田悠輔の「高齢者は集団切腹」論の政策化であり、その第一歩として位置づけられる危険な動きだ。ネットでは大きな批判を浴び、玉木雄一郎は姑息な詭弁で逃げているが、党の政策パンフレットには「法整備を含めた終末期医療の見直し」が掲載(P.32)されたまま訂正されていない。マスコミの予想どおり国民民主が選挙で伸びた場合、この公約は国民に支持されたと見做され、公共空間で市民権を得る政治状況になるだろう。現在、自民党は単独過半数を割る公算が高く、自公の過半数維持も微妙だと言われている。場合によっては、玉木国民に連立参加の打診が届く局面も考えられ、そのときは、玉木雄一郎は目玉政策である高齢者安楽死の法制化を自民党に受け入れるよう迫るだろう。無論、維新は全面的に賛成のはずで、総選挙後に与党の政策としてあっさり実現してしまう可能性が小さくない。

玉木国民は、実際にはきわめて過激なネオリベ政党であり、維新と同じかそれ以上に危険な新自由主義の前衛だ。そして、その党の性格を今回の選挙では露骨に強調して立ち回っている。今に始まったことではないが、最近特に高齢者に対する攻撃が政治の世界で顕著になっていて、若者と現役世代を持ち上げる一方で、高齢者を叩いて貶めるキャンペーンがマスコミとネットで氾濫している。竹中平蔵を中心とする新自由主義勢力側が、社会保障削減政策を正当化する目的で、高齢者を無価値化し、社会のお荷物扱いして切り捨てる言論を吐き散らかし、マスコミを含めた日本の支配的世論になっている事実に気づく。「現役世代の負担軽減」を名目に、70歳を過ぎても高齢者に働いて稼ぎ続けることを求め、それを当然視し常識化する空気が支配的になった。収入のない高齢者は病院に行くなというような言説が横溢している。

現在、病院での窓口負担は、70歳から74歳までが2割負担、75歳以上が1割負担となっている。維新はすべて3割負担にする「改革」を政策に掲げ、自公政府も選挙前に「高齢社会対策大綱」を打ち出し、75歳以上の医療費の自己負担を3割にする方針を示している。今回の選挙で躍進が予想される国民民主がこれに乗れば、3割負担が現実のものになる。また、65歳以上の高齢者の年金を減額する「在職老齢年金」制度も実現の進行となるだろう。若いとき、せっせと働いて社会保険料を納めていたときは、こんな日が来るとは夢にも思わず、リタイアしたら悠々自適の老後生活を送れるものと思っていたが、信じられない悪夢の現実世界に変転してしまい、途方に暮れるばかりだ。政府(支配勢力)が無理やり社会保障を削減し、それを正当化するべく、高齢者を社会のコストであると断定し、邪魔な余計者として不当視している。

この空気は30年前の新自由主義の思想的台頭から始まり、小泉竹中の「聖域なき構造改革」で実行に移され、病院のベッド数削減とか、リハビリ入院日数の短縮とか、次々と冷酷な処置が打たれて行き、国民はそれに慣れて行った。現在、国の社会保障費の前年度に対する伸びは、4400億円の規模に抑えられている。思い出していただきたいが、小泉竹中改革の以前、20年以上前は、この自然増が毎年1兆円だった。毎年1兆円ずつ伸ばしながら、当時の水準の年金・介護・医療サービスを賄っていた。そこから、高齢者もずっと増えているのに、自然増が4400億円と半分以下に削減されている。つまり、それだけ給付が減らされ、保険料負担が増やされ、あるいは別の防衛費とかに歳費が回されたという意味だ。20年前と比べて国の予算は4割も増えている。82兆円から112兆円になっている。が、社会保障の伸びは半減以下になっているのだ。

先週(10/20)、尊敬する上皇后陛下が90歳の卒寿を迎えられた。小泉竹中の「聖域なき構造改革」が断行されていた頃、美智子皇后が高齢者を冷遇する社会風潮に懸念を示し、慎重な言葉運びで批判していたことを思い出す。2009年の即位20年のときの記者会見での発言であり、「高齢化が常に『問題』としてのみ取り扱われることは少し残念に思います。本来日本では還暦、古希など、その年ごとにこれを祝い、(略)長寿社会の実現を目指していたはずでした」と言っている。政治への関与を厳禁されている立場でありながら、勇気を出して問題提起をした美智子皇后は立派だと思う。今、その言葉が日本の指導層の中から誰一人として出ない。思い出せば、15年前の当時も、弱者である高齢者を痛めつける新自由主義政策に対して、正面から批判するマスコミの論者や学者はいなかった。だから、私は美智子皇后の言葉が印象的でよく記憶に残っているのである。

現在、首都圏で頻発している強盗殺人・強盗傷害事件がトップニュースとしてテレビで報道されている。NHKと民放の夜の報道番組もそうだし、朝と昼のワイドショーも同じだ。警視庁や府県警本部の現職・元職の刑事が出ずっぱりで生出演し、解説と警告の役割を担っている。ほとんど警察によるテレビジャックと言っていい。見ながら、これほどテレビの放送時間を占領支配するリソースとエネルギーがあるのなら、もっとネットでの説得に注力したらだろうと不審に思う。実行役の若い犯人予備軍が見ているのはネットだ。テレビの視聴者は年齢層が高い。Yahoo トップの右上広告欄とか Yahoo ニュースで拡散すべきだし、SNSの広告画面を活用すべきだろう。なぜ X の右カラムやタイムラインを使わないのか、なぜLINEの広告スペースを使わないのか分からない。求人サイトを含めたネット業者がそれを嫌がり、警察がネット業者の論理(私利益)に忖度している疑念を抱く。

議論が逸れたが、一連の事件で驚愕し恐怖を覚えるのは、若い20代の実行犯たちが、僅か20万円ほどの金銭を強奪するために、被害者の高齢者に凄惨で執拗な暴行を加え、死亡させ重傷を負わせている事実である。昨年の狛江の事件では90歳の女性がバールで全身を殴打されて殺害された。今月の青葉区市ヶ尾の事件では、75歳の男性が鈍器で全身を殴られて殺害された。いずれも、金の在処を聞き出すための拷問暴行による傷害致死である。実行犯たちはイヤホンを付けて指示役と通信アプリで通話し、リアルタイムに指示を受けて緊縛暴行に及んでいる。結束バンドや粘着テープで手足を縛り上げ口を塞ぐとか、凶器で全身を殴りつけて激痛を与えるとか、一つ一つその場で指示に従って実行している。プロの指示役の方は、マニュアルどおり成功経験則どおりに、金銭強奪の時間を最短化し「収穫」を最大化するべく、淡々と冷酷残忍な暴行を、傷害の程度など無関係に行っている。

実行役の方は、指示役の命令のままに機械のように「作業」を行っている。が、昨年の狛江の事件を聞いたときから感じていたのは、現在の若者と高齢者の関係性の問題であり、90歳の女性に対して平気でバールを10回も振り下ろせて殺害できる彼らの精神態度という問題だ。新自由主義のシステムとイデオロギーが定着した現在、日本の若者たちは高齢世代を敵として意識し、自らを社会的被害者の如く錯覚する病んだ倒錯観念を刷り込まれている。高齢世代に対して、若い世代から税や社会保険を収奪する特権階級のように敵視する観念が植え付けられ、自身の不満な境遇の原因が高齢世代にあるように責任転嫁している。そしてまた、身体的な弱者で現実の労働現場で生産性の劣る高齢者を、社会的に不要で抹殺してもよい無価値な存在として侮蔑している。だから平気で殺害処分に及べるのだろう。玉木雄一郎の主張は、こうした観念を正当化し、彼らに「正義」の根拠を与えるものだ。

ここから高齢者についての日本の政治思想を考えたい。今、私は東大出版の『丸山眞男講義録』を読み直していて、古代日本における儒教(儒学)の受容と、徳川時代の朱子学の全盛について再勉強している。6月に『フローにしか生きられない現代人』という記事を書いたが、その問題意識の延長で、”儒教思想と日本社会”という問題がずっと頭の中にあり、その着想の契機を ー 現実政治に意味を持たせる形で ー 何とか仮説的に整理したいという願望にとらわれている。ここではまず、『長寿を科学する』の著書もある医師の祖父江逸郎が、100歳で死去する2年前の2019年に対談で語った言葉の引用から始めよう。

日本には昔から「高齢者は威厳を保った、別の社会を形成している存在」という考えがありました。「高齢者を敬う」という思想は、東洋の、いわゆる儒教の基本的な思想ですね。以前、対談にお招きした宗教学者の山折哲雄先生は、「日本には老人を翁として尊重する伝統文化があった。老いは衰退ではなく成熟と捉えていた」とおっしゃっていました。老いてこそ価値があるという思想は、残念ながら今の社会ではなくなりつつあります。

日本には「敬老の日」という国民の祝日がある。この主旨と目的の祝日が制度化され定着している国は、世界中でおそらく日本だけだろう。ユニークであり、率直にこの制度と習慣を誇らしく思う。戦後、兵庫県の一村で老人を敬し祝する日が設けられ、その慣行が県全体に広がり、1954年に国民の祝日に制定された。内閣府のHPに説明があり、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と明記されている。この政府のHPには1948年に制定された「国民の祝日に関する法律」の紹介があり、第1条に、

自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

とある。新憲法公布から間もない戦後民主主義の日本の息吹が感じられる表現で、読んで響きが心地がいい。その後、1963年、東京五輪の前年だが、特に老人ホームの行政上の関連から老人福祉法が制定された。現在もこの法律名のまま施行されており、条文の中身は現代風に改正が加えられている。理念に注目すると、敬老の日の主旨がそのまま書かれ、「生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする」と、憲法25条の原理原則がカバーする法構造になっていることが分かる。ここから照らせば、玉木雄一郎の「改革」論や成田悠輔の発言(暴言)は、老人福祉法違反であり、憲法25条違反であることが明らかだ。

(目的)
第一条
この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もつて老人の福祉を図ることを目的とする。

(基本的理念)
第二条
老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。

第三条
老人は、老齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して、常に心身の健康を保持し、又は、その知識と経験を活用して、社会的活動に参加するように努めるものとする。
2老人は、その希望と能力とに応じ、適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする。

最近の国の高齢者行政やマスコミの高齢者議論は、老人福祉法第2条の理念が完全に欠落し、スポイルされ、高齢者にやたら自立と自助を促し、自己責任を強い、国の保護に頼るなというメッセージ一色になっている。稼ぐことばかりを要請し、助けることを放棄している。その思想の変化(新自由主義化)が、1963年の老人福祉法を読んでも分かるし、1954年の祝日制定の過程を検証しても分かる。老人福祉法でも、高齢者に健康維持や社会的活動への参加を求めているけれど、それは自立自活の要求や強制ではない。あくまで本人の自発的な幸福追求のためのもので、ベースとなる「健全でやすらかな生活」は国・社会が「保障」するものだと規定している。自立論ばかりがマスコミでシャワーされ、80歳を過ぎても働いている高齢者の姿が当然視の風潮と論調の下で報道され、成田悠輔の「集団切腹」に歪んだ若者の"支持"が広がる中、まさに目から鱗の発見だ。

上皇后陛下の実家の正田家のホームドクターは、何と、あの聖路加病院の日野原重明であったそうな。すべてが繋がって得心できる。15年前の美智子皇后の勇気ある発言 -「聖域なき構造改革」への渾身の批判 - も頷ける。いずれ「講義録」の勉強の成果を記事に纏めたい。


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