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司馬遼太郎の『覇王の家』に感服 ー 圧巻の築山殿論、家康とジェンダー

今年は司馬遼太郎の生誕100年に当たり、各地の書店等でイベントが行われている。新宿の紀伊国屋書店本店でもフェアが開催されていた。今年、NHKで家康が主人公の大河ドラマが制作・放送されていて、この機に家康の歴史を復習しようと思い、松本清張の角川文庫を正月に買って読んだ。読書の目的の第一は、いわゆる三河家臣団の諸相と系譜について一から整理して知識の引き出しに入れることだったが、それ以上の興味として、清張がどのような視点から家康の歴史認識に問題提起を入れ、定説を覆す新たな仮説提示に挑んでいるか、清張による家康の歴史ミステリーの推理を期待したからだった。清張ならば、古代史現代史で試みたように、きっと鋭い発掘と解読を見せてくれるだろうと予想したのだ。ところが、豈図らんや。

中身はまるで中学生向けの教科書の説明だった。全く清張らしくない平板な記述がそこにあり、清張らしい独自の鋭い着眼や考察がなく、あれれと拍子抜けで終わる始末となった。大河ドラマは初回を見たきりで、いつものように脚本が出鱈目だったので2回目以降は見ていない。とはいえ、せっかく家康が世間で注目される一年が流れていて、私も年であり、次にいつこの機会が訪れるか分からないので、三河家臣団と家康主従についての勉強は世間が夏休みの間に済ませたい気分だった。で、手に取ったのが司馬遼太郎の『覇王の家』である。これならスタンダードの学習素材になるだろうと思った。結果的に、それ以上の大きな発見と感動があり、あらためて司馬遼太郎の天才に感服するところとなった。やはり、日本の歴史は司馬遼太郎だ。素晴らしい傑作だった。

『覇王の家』は、1970年1月から71年9月にかけて 小説新潮 に連載された作品で、長編小説としては後期のものとなる。同時期に 週刊新潮 に『城塞』を併行して執筆していた。戦国期を描いた小説として、すでに『国盗り物語』『関ヶ原』『新史太閤記』を書き終えていて、また『城塞』に含まれる部分を除いたところの、家康にフォーカスした残りの歴史が『覇王の家』で扱われている。具体的にいうと、三方ヶ原の戦いと築山殿事件と伊賀越え脱出が文庫本の上巻に、小牧・長久手の戦いが下巻に収められた構成になっている。数多ある司馬遼太郎の歴史小説の中で、家康論の『覇王の家』は決して注目度が高い作品とは言えず、むしろ地味な佳作の位置にある。そう評価していた。司馬遼太郎自身が、家康への関心が信長や秀吉ほど高くなく、コミットが薄いように見えていた。

司馬遼太郎が歴史小説を書いていた頃、家康といえば山岡荘八であり、定番は山岡荘八が提供しているというのが世評で、司馬遼太郎は家康論の書き手ではなかった。私もそう思っていたが、『覇王の家』でその認識を一変させられた。この年になっての発見と覚醒であり、私にとっては意味が大きい。司馬遼太郎に勝る歴史の書き手などなく、戦国にせよ幕末維新にせよ、日本の歴史を解説し教育するのは司馬遼太郎だ。確信と結論である。未読の方は『覇王の家』をぜひお読みいただきたい。とにかく面白く惹き込まれる。折しも、グッドタイミングでEテレ『100分de名著』の放送があり、4回シリーズで特集される。夏休みのこの番組を『覇王の家』に設定した。さすがにNHKだと膝を打つ。やはり、日本人の歴史は司馬遼太郎に還る。家康についての基礎知識も、教諭してくれるのは司馬遼太郎なのだ。

感嘆させられ興奮させられたのは、前半の築山殿論である。絶品だ。築山殿事件は謎だった。私にとってもそうだし、皆様も同じだろう。築山殿とは何者なのか、その特異なキャラクターの真実はどこにあるのか。家康は、36歳という壮年期に、なぜ正妻と長男を殺すという恐ろしい行動に至ったのか。家康の一般的なイメージとして、慎重で鷹揚で包容力がある性格が浮かび、狂気や激越さや暗鬱さという特徴は人物像から遠い。が、このとき、何とも陰惨で不可解な事件を起こしている。通説では、非情で冷酷な信長が死罪を命じ、家康は従わざるを得なかったという見方になっている。築山殿が武田勝頼と内通し、その事実を咎められ、信康も加担した立場にいたため、処刑はやむを得なかったという理解で通っている。だが、『覇王の家』を読むと、経緯はそうではなく、信長は二人を殺せという指示を与えていない。

築山殿の謀略 - 武田との内通、家康殺害計画 ー を察知したのは、信長の娘で信康の正室となって岡崎城にいた徳姫で、12か条の告発の訴状を信長に発し、対応と処置を請うていた。信長は、徳川家家老で外交役の酒井忠次と安土城で接見、徳姫の密書を見せ、二人の間で仕置きを決定する。が、このとき信長が提案したのは押し込め(逮捕・監禁)であり、死罪までは要求していない。酒井忠次の方が極刑を言い出し、厳罰断行で合意となるのである。これは『三河物語』や『三河後風土記』に即した通説の歴史解釈だ。すなわち、後世に家康の作為と主謀性を隠し、冷酷残忍の責任を信長に押しつけ、さらに直接関与の責任を忠次に被らせるために、この物語が書かれて一般知になったのだろう。真実は違う。いかに専制君主の信長でもそこまでは無理だ。

信頼する、忠実な部下的同盟者である家康に対して、正室と後継ぎを一挙に殺害させる強制はできない。また、宿老の酒井忠次がそれを言い出すのも奇妙である。それが忠次の提案に基づいた信長の処断であっても、家康が不服であれば、自ら安土に参じ、信長に助命を懇願して覆すことができただろう。家康はそれをせず、唯々諾々と厳命に従っている。不自然だ。という懐疑を持ってネットを調べると、情報があり、別の史料である『当代記』や『安土日記』などによれば、信康抹殺は家康の意向であり、家康が信長に信康の告発に出たとある。また wiki では、最近は家康と信康の不仲説が事件の根本原因として有力になっているという指摘もあった。どうやら、これが真相であり、事件の主犯は家康なのだ。家康自身がその動機を持ち、酒井忠次や榊原康政と謀っていた。

家康が築山殿を排除したい欲望と執念を持っていたことは、『覇王の家』の叙述でよく納得できる。家康にとって、築山殿はマインドコントロールの呪縛の主であり、精神的な圧迫と抑圧の元凶で、自我を剥奪される魔性だった。小説では築山殿は家康より10歳年上である(実際は4歳年上)。結婚したとき家康は14歳。今川体制の監視下の人質御殿の中で、築山殿と陸み合って性のエネルギーを放出する夜の閨だけが、少年家康の精神の解放の瞬間であり、同時に、築山殿に身体と精神を支配され調教されて行く、大人の男への成長過程でもあった。築山殿にとって、彼は人質の年下の男の子というだけでなく、いわば訓育してやる蛮族の幼君で、侮蔑が根底にあったのである。司馬遼太郎の筆致は誇張と単純化もあるけれど、当時の駿河衆の三河衆への差別意識が甚だしかった点は間違いない。

土臭く田舎臭く文化程度の低い三河。対して、駿河の今川は室町幕府の守護で、京の文化が豊穣に香る貴族社会。築山殿はそのお姫様であり、三河蛮族の幼君とは別格という自意識なのだ。桶狭間の戦いで状況が一変し、夫婦の関係が変動し、家康が遠州を奪って浜松城を拠点に据えるとき、築山殿と別居して自由な男性となる。27歳。築山殿は岡崎で長男信康と棲むところとなった。その岡崎城に尾張織田家からお姫様が嫁して来る。信長の長女で信康の正室。今をときめく織田家の財力と華飾。シックな駿河とは異なる、尾張の派手でコンテンポラリーな文化性。お市の方や淀殿と血の繋がる徳姫は美貌だった。自ずと、気位の高い築山殿と嫁姑の争いとなる。この部分の描写が実に明快で、築山殿事件の真因と内奥を読者に気づかせる。

一計を案じた築山殿は、女子しか産まない徳姫から信康を引き剥がすべく、信康に女性(側室)をあてがうのである。それは甲斐の娘だった。そなたは駿河今川の高貴な血を引く王子であるぞよ、駿河今川を復興させて天下を取るのじゃと、築山殿は息子信康に説教し、執拗に洗脳を繰り返したのだろう。築山殿にとって、名門駿河今川こそが最高価値で、後進三河は蛮族の地であり、尾張の新興織田など卑しい成り上がりに過ぎない。その価値観からは、当然、今川と同じ室町幕府守護の甲斐武田は仰ぐべき名門であり、親近感を持つ勢力で、武田と結んで織田・徳川を討滅する方向性は政治的に正当という判断になる。築山殿は、勝頼にあてた密書の中で、家康を殺した後、武田一門の中から自分の格にふさわしい後添い(再婚相手)を世話してくれと要望していた。

築山殿40歳。司馬遼太郎は、築山殿のこの行動を妄想の語で総括している。巷間言われている築山殿の不倫と旺盛な性欲と情念が、果たして史的事実だったのか、それとも後世の徳川体制による貶めの歴史歪曲なのか、それはよく分からない。だが、司馬遼太郎の筆は、築山殿のキャラクターをデフォルメし、現代の一般常識の基準から裁断しつつ、同時に、中世の日本女性という奔放な類型を設定し、そこに密かな魅力と憧憬を感じている気配も感じられる。そして、私なりに理解できたのは、築山殿事件の背景というか根幹に、築山殿と徳姫との嫁姑のヘゲモニー闘争があり、意地とプライドの衝突があったという事実だ。この点は、築山殿事件の歴史解明の上でもっと光が当たってよい要素だろう。戦国期は女性の地位が高く、女性が政治を積極的に動かす役割を担う。おねが典型例だ。

実家の今川勢力を失い、家康から疎んじられ、圧倒的勢力たる新興織田から入ってきた徳姫を見た築山殿は、自らが生き伸びるため、信康を抱き込んで、武田と内通するクーデターを構想するしかなかったのではないか。おそらく、狡猾な家康は、この築山殿の謀反を察知しつつ泳がせて巧妙に利用し、この機に築山殿と徳姫の二人の女性勢力を一気に徳川家から追い出そうと画策したのだ。私の直観と推理である。不仲の信康も排除すれば、徳姫は岡崎城に居場所を失う。すなわち織田家との姻戚関係を切り、織田から独立することができる。一挙両得。その政治を、家族のような家臣団と謀ったのではないか。そう仮説を立てれば、この政治がよく理解でき、分かりにくい歴史の謎が解ける。家康という男は、日本史上、政治家として最大で抜群の能力を持つカリスマだが、内面に欠落と薄暗さがある。

家康は家族の愛を知らない。母親の愛を受けて育ってない。妻との愛情関係で築いた人生と成功がない。秀吉にはある。このことが、しかし、後の歴史に大きな影響を残し与えている。司馬遼太郎は、家康主従と徳川家臣団の集団属性が、後の日本人の集団形成に遺伝的な刻印を与えた点を見抜いている。私と同じ年齢の者は、大きな組織で仕事した経験を何十年も持っているだろうから、この司馬遼太郎の洞察がどれほど本質を射抜いたものか、分かりすぎるほど分かるだろう。例えば、日本人の組織では、よく「報告・連絡・相談」が言われ、「ホウレンソウ」の徹底がコードとプロトコルとして組織教育される。これが曲者で、私は若い頃から何か引っ掛かりを感じていた。一般的で機能的なビジネスのルールやマニュアルではないのだ。もっと人格的な意味があり、早い話が上司への忠誠の義務の契機がある。

ムラ的であり、徳川臭さを感じる。三河の属性を感じる。いい面悪い面、両方あるが、家康が天下を取っていなければ、近代の日本人はこのパターンに馴染んでいなかっただろう。司馬遼太郎は、家康は女性を道具として扱ったと書いている。子を産む道具。家を守る道具。それ以上の価値や意味を与えず、そして女性に対して吝嗇だった。家康の側室たちは、政治の賄賂を受け取って私財を賄っていたと書き、豪勢きわまる城をポンと建てて淀殿に与えた秀吉との差を対比している。思い出すのは、高校の日本史の教科書の記述で、家永三郎著の三省堂日本史Bの文中の一節である。そこには、江戸時代が日本の女性の地位が最も低く下がった時代だと明記していた。日本史の教師は京大文学部の日本史を出た俊秀で(おそらく上田正昭ゼミ)、この点に生徒たちの注意を向ける講義をした。なので、よく覚えている。

最後に、これも私なりの観点だが、この小説で展開された圧巻の築山殿論の描写と叙述は、おそらく司馬遼太郎の独創ではなく、みどり夫人とのディスカッションの産物だろう。二人で築山殿論を議論し、中世の日本女性像を概念化し、その政治権力との近さに着目し、小説で説明したものと思われる。司馬遼太郎が小説で女性を描き、男女を描くときは、必ず自身とみどり夫人が描き込まれ、二人の家の中の会話がコピーされている。『夏草の賦』など典型的だ。司馬遼太郎が自ら証言しているように、原稿を書き上げると、それを編集部に郵送する前に、みどり夫人が査読していた。作品の原稿の第一の読者は夫人であり、作家は夫人に感想を聴いていた。司馬遼太郎の小説で思っていたのは、男女の描写がいつもワンパターンで、同じ人間が同じ会話しかしないことである。若い私は退屈だったが、そこには意味があった。

夫人に監視され、厳重にチェックを受けているのだ。小説中に男女が登場するとき、主人公の相手はみどり夫人でなければならなかった。浮気するとそれが筆調に表出し露呈するのである。夫人は文学少女から編集記者になった経歴で、その方面でも才能に自信のある人だった。ここで『花神』のイネ論について述べたいが、その「疑惑」については前に触れたし、紙幅もないので省略する。『覇王の家』は『花神』の直後に書かれている。濃厚に男女の問題が登場する築山殿論の描述で、夫人との談義と検討がなかったはずがないが、夫人はどういう考証と解釈をレクチャーしたのだろう。私の観察では、築山殿を世間的常識的視線で裁断し、ヒステリーとかエキセントリックの表象で俗論の地平に着地させつつ、その裏側で、みどり夫人もまた、築山殿に同情し共感し、微かな愛おしみを隠してないように想像される 。

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