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ゴルバチョフの死を悼む (1) - 理想主義とロマンティシズムのステイツマン

ゴルバチョフが91歳の生涯を閉じた。年齢からすれば長寿を全うした人生とも言えるが、もっともっと長生きして欲しい人だった。最近も核兵器の問題について声明を出していたし、昨年末も、ウクライナ問題で米ロが緊張するさなか、対話の重要性を説くメッセージを発して注目されていた。世界政治における現役の要人であり、影響力のある政治家だった。重要な局面で大事な指摘や警告を発してくれる哲人であり、耳を傾けて意見を聴くべき老賢者だった。特に平和について頷ける発言が多かった。真摯であり、率直であり、世界の市民の意念が代弁されていた。

世界が民主主義体制と権威主義体制の二つに割れ始めている、と米欧西側は現状を定義し、自らの陣営を絶対的正義であると正当化する。そして、権威主義陣営と名指しした側(中国・ロシア・イラン等)を敵視して打倒と殲滅に血眼になっている。だが、世界の多くの国々とそこに住む人々(アフリカ・アジア・中南米)は、その概念と構図の埒外にあり、煽られる対立と緊張を不毛なものとして捉えている。けれども、西側が自画自賛して咆哮する「普遍的価値観」に対して、埒外で辟易としている人々の、政治的な意思や希望を代弁するリーダーがいない。西側のイデオロギーの説教に対抗する有力な言論者がいない。

ゴルバチョフは、その要素と条件を持った数少ない人物だった。日々布教され、絶対化され、押し付けられていく西側の「普遍的価値観」の実体を相対化する役割を果たし得る存在だった。そこに、超高齢ながらゴルバチョフの立ち位置があり、現役のステイツマンとしての存在意義があった。ウクライナ戦争についても、早い時期から即時停戦を呼びかけている。対話と交渉のみが唯一の解決方法だと叫んでいる。この立場と主張は私と同じだ。ウクライナに武器支援をせよなどと言っていない。最愛の妻ライサはウクライナ人だった。ゴルバチョフにとってウクライナ戦争はどれほどの苦悩と心痛であり、命を縮める厄難だったことだろう。

ゴルバチョフに同情する。つい先日、ゴルバチョフの最晩年の日々を撮ったドキュメンタリー番組をNHK-BSで見たが、どれほど強くライサを愛し、今でもライサに思い焦がれ、ライサの面影を追い続けているかが映し出されていた。秀才のゴルバチョフはロシア的な情熱家のロマンティストで、カメラの前で青春の恋愛詩の一節を詠み上げ、「女性を愛し、愛されること、人生にそれ以上意味のあることなんてあるのかね」と言っていた。23年前にライサに先立たれて、ゴルバチョフは生気をなくし、生ける屍のように朽ち変わった。ライサこそがゴルバチョフの教師であり指導者であり、決断の根拠であり、自信の源泉だった。

ペレストロイカの頃、80年代後半の絶頂期、私はゴルバチョフに夢中で、思想的同志の関係だった。文句なしに尊敬する政治家であり、一挙手一投足に釘づけになっていた。政治にプラスの意味を与え、未来に希望を与えてくれる華のある指導者だった。こうして欲しいと思うことを、期待どおりに演じてくれた。まさに、願いを代行し、思いを代言してくれる政治家だった。言葉がよく、行動がよかった。理想の政治家というのはいるものだ、出て来るものだと、初めてそう確信したところの、現在進行形の政治家だった。私も高齢者の年になったが、そうした感慨を持った政治家はゴルバチョフの他になく、ゴルバチョフの後にいない。わくわくさせてくれたのは、ゴルバチョフだけだ。

ゴルバチョフと思想的同志の関係。それは、ヨハネパウロ2世がそうで、教皇が信頼し依拠した宇沢弘文がそうだった。われわれは、私は、そのとき同じ夢を見ていた。そしてその夢が現実になることを信じ、現世が少しずつ理想に近づくことを信じた。楽観的だった。その思想が何かと問われれば、大きく二つの意味と領域があったと答えなければいけないだろう。一つは、資本主義と社会主義という問題であり、資本主義の矛盾と弊害をどう克服するかという問題で、それをどうオーウェル的ディストピアに逆転させず、ソ連型の絶望と苛政の牢獄に固結させず、理想的な地平へキャリーするかという問題だった。古くて新しい問題。人類が100年以上直面している問題である。

もう一つは、平和主義の問題であり、9条的思想の問題である。「欧州共通の家」の理想の実現の問題だ。ゴルバチョフの平和主義は9条的であり、「人の命より尊いものはない」とずっと言っている。この考え方は、欧米では必ずしも一般的ではない。政治家によって濃淡がある。米国や英国にはこの平和主義は薄弱で、軍事力による security を peace の意味にして使っている。メルケルの発想にはゴルバチョフ的な平和主義の性格が窺えた。ミンスク合意を纏めた熱意と奔走は、彼女の9条主義の成せる業だったと言える。メルケルは東独出身、ゴルバチョフはソ連の政治家である。偶然とは思えず、思想的な脈絡と通底を何らか想像せざるを得ない。

要するに、二つとも理想主義ということだ。先日、8月の慰霊の季節の際、古賀誠が、空襲で焦土と化した77年前の大牟田を念頭に浮かべながら、政治家は理想を語るものだと言い、9条擁護を堂々と言い切った。私は古賀誠に同意する。今、どうしてここまで政治家から理想が失われ、政治が理想主義から離れてしまっているのか。それこそが驚愕し悲嘆すべきことである。古賀誠の啓示を新鮮に感じた者は多かったのではないか。おそらく、古賀誠の言葉に共感を覚えた者は、この国の高齢層ほど多く、若年層ほど少ないはずだ。が、それこそが、この国の深刻な思想不全の現実であり、精神的病魔におかされた姿に違いない。問題は、9条の政策論的是非ではない。

政治家は理想を語るべき存在なのかどうか、そもそも政治は理想を実現する使命を持つものなのか、人は理想を持って生きるべき存在なのかどうかという問題である。嘗ては答えはイエスだった。問いは不要だった。現在は変わっている。地上に理想がなく、人の内面に理想がない。永田町に理想主義などなく、マスコミとアカデミーも同様だ。テレビ空間に理想を志向する傾向の片鱗もない。テレビやネットでは、それはお笑いで貶下して揶揄するネタである。現代人においては、理想主義やロマンティシズムは、否定されきった過去の人間の態度であり、侮蔑と嘲笑で切り捨てるべき属性である。禁忌化された思想性と分析してもいいかもしれない。

何があり、何が肯定されているかというと、金儲けへの執着であり、欲望と快楽であり、軽薄な自己顕示と弱い者いじめである。権力と米国への忖度と諂媚であり、詭弁と世襲貴族の空威張りだ。無意味な現代思想の流行であり、しばき隊の暴力である。ジェンダー、マイノリティ、LGBT、多様性、SDGs、、これらは資本主義の矛盾や弊害を克服するものではないし、格差と貧困といじめを解消するものでもない。地上から戦争と軍隊をなくして平和を実現するものでもない。上からダウンロードされて喧伝・扇動されている流行思想であって、市民が下から希求した政治課題ではない。ジェンダー平等と男女平等は、動機と目的が同じではない。男女平等には性差撲滅の契機はない。

男女平等は人類の理想の一つだが、ジェンダー平等は理想主義ではなくルサンチマンを出自とする思想性だろう。余計な方向に脱線した。ゴルバチョフが共産主義・社会主義についてどう考えていたか、纏まった思考の跡を読んだ記憶がなく、古典になるような理論的テキストは残してないようだ。それを草稿にするとすれば、ミハイルではなくライサの仕事だっただろう。91年、59歳のときに遭遇したクーデター禍がなく、監禁と脅迫による精神の傷がなければ、何かが執筆されていたかもしれない。ソ連共産主義およびマルクス・レーニン主義についての批判 - カント的な意味の - を整理し、着想を要綱化し、その後の研究者の道標となる著作を残していた可能性があった。

書記長時代、脚光を浴びていた当時のゴルバチョフは、「批判と自己批判の弁証法」のフレーズを頻用していた。得意満面の表情でその信念を周囲に語っていた。ライサがダイニングでゴルバチョフと政治・政策の議論をする折に、この文言が飛び交っていたのだろうか。モスクワ大学哲学部の俊秀だったライサ。ゴルバチョフは常にライサに相談し、ライサに言葉をもらい、ライサに勇気と確信を与えられていた。上皇夫妻のように、一心同体の同志であり相棒だった。近頃、「自己批判」の語は共産主義の悪魔の言葉となり、心理学者や精神科医によって全否定され、禁断の倉庫に封印され抹殺されている。まさに、これぞ自由と民主主義の「アメリカ世(ゆ)」。言葉狩りは止まらない。

ゴルバチョフは純粋な理想主義者だった。だからこそ、実際の政治外交の過程で、中距離核ミサイルの撤去廃止という成果を実現し得た。レーガンを説得し、合意を獲得し、ビスマルクの「可能性の芸術」を人々の前に証明した。最近、そういう政治の絵があるだろうか。見たことがない。金儲けと欲望と権力への執着と、弱い者いじめと詭弁と瞞着だらけなのは、日本だけでなく世界中がそうだ。西側のリベラルデモクラシーが勝利を収めて「歴史の終わり」を迎えつつとされる世界は、金儲けと快楽と虚栄心と詭弁と暴力が支配を全面化する世界であり、それへの人間の抵抗がどんどん失せ衰えている世界だ。およそ本来の政治らしい政治が絶え果て、リーダーが出ず、庶民は古代の奴隷や中世の農奴のような無力な存在(愚衆)になっている。

日本のマスコミは、ゴルバチョフの死に際して、冷戦を終わらせたと簡単に言い、社会主義を破壊したと書いている。西側目線の単純な結論であり、アメリカから見た皮相的な評価と断定だ。フクシマ的なリベラルデモクラシーの価値観からの認識であり、本人の思想的内実や真価や意義に正しく目を向けていない。ゴルバチョフの立場は社会主義者のままだったし、冷戦の終焉が西側によるロシア中国への圧迫と包囲になるとは予想せず、それを是認することもなかった。プーチンは、ゴルバチョフは甘かったと批判している。その批判はリアルポリティックスの観点からは妥当だろう。けれども、私はその見方には少し異論がある。ゴルバチョフは理想主義者だったから、西欧諸国の市民を信じ、「欧州共通の家」構想に共感してくれると思ったのだ。

民主主義の国なら、それが多数の世論と民意になり、政策決定されると楽観したのだ。ロシア国民は、その点を加味してゴルバチョフを採点しないといけない。リアリズムだけが政治ではなく、古賀誠が言うように、理想を語ることが政治家の使命なのだ。リベラルデモクラシーの思想と体制が隅々まで全面化しているとされる今の世界は、実は衆愚政治の世界である。われわれは、衆愚政治の現実を民主主義と呼んで悦に入っているに過ぎない。今の政治と社会には理想主義がない。正義と呼べる正義もない。貴族支配の放恣と傲慢と、詭弁と惰性と退廃だけがある。理想主義が失われているから、倫理も失われ、知性も失われ、誰も何も矛盾を感じず、弊害を弊害と感じず、等閑を決め込むのだ。

政治の理想主義はどこから来るのか。今のシステムを根本から批判する精神や視座なくして、どうして現実との緊張感が生まれるのか。私は、ゴルバチョフの理想が必ず将来実現すると信じる。世界の人々が、ゴルバチョフが思い描いた夢のとおりに世界を改造すると信じる。


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