全国注目の土佐市の歴史を手短にご紹介 - 高岡氏、蓮池氏、大平氏の興亡
前回の記事の末尾で、日高村について「『高岡』の裏の麓の、すなわち土佐市の母なる土地」と書いた。何を意味しているのか、もう少し説明を書き足す必要があると感じる。現在、土佐市はカフェ問題でスポットが当たって全国最注目の自治体となっている。Yahoo のトップに頻繁にニュースが上がって話題になり、コメント欄に非難が集中して騒然となっている。この機会に少し市の歴史を知っていただくのも一興だろう。司馬遼太郎的な口調で気軽に仮説と持論を進めたい。市中心部は高岡町という地名がついている。高知県高岡郡の首府である。この「高岡」が何を意味するのか、昔からずっと謎のままだった。ようやく郷土史家の論文と史料に触れ、あの山こそが「高岡」であることを確信した。最近になって意味がつかめた。今は清滝山と呼ばれているようだが、昔は名前がなかった。
山にきちんと名前がついているか、道の通りに由緒ある名称が付されているかが、その町の文化的レベルを測る尺度であったりする。霧島の高千穂峰に似た、鳥が両翼を広げたような特徴ある山容。怪獣ギャオス型の形状の山。中腹に四国八十八か所三十五番札所の清滝寺がある。この山が「高岡」の由来だった。が、それは南側の、現在の土佐市側から眺めて呼ばれた地名ではなく、裏の北側の日高村の方から見た山塊の名前だったのである。現在の日高村の地に高岡氏がいた。その山の麓で勢力を張っていた。その高岡氏が仁淀川を南下して、南側に拠点を築いたのが古代の高岡郷である。「和名抄」に高岡郷の地名が登場する。高岡郡はまだなく、仁淀川の両岸とも吾川郡の版図であり、全域で8郷が存在した。左岸に仲村郷・次田郷・桑原郷・大野郷の4郷、右岸に吾川郷・高岡郷・三井郷・海部郷の4郷。
ちなみに、この三井郷が新居の由来ではないかと言われている。そして仁明天皇の841年、「続日本紀」で吾川郡が二つに分離し、新たに高岡郡が建てられる。フロンティアだった右岸が高岡郡として独立する。土佐国の最後の新しい郡の誕生。注意が必要なのは、嘗て右岸に吾川郡吾川郷が存在した事実だ。つまり、分割前の吾川郡の首都が右岸にあり、今の日高村の地に所在した重要事実である。言うまでもなく、これは土佐二宮の小村神社を本拠とする郡衙の地を意味している。小村神社の創建は古く、国宝の金銅荘環頭大刀を神体とする。古い。古事記や日本書紀の神様を祭神とする神社は古くて格式がある。ここに吾川郡の首府本拠が置かれて有力な豪族が仁淀川両岸を広く統治していた。そこに organization change が起きるのである。something political change が起き、高岡氏が右岸を高岡郡として独立させた。
高岡の地が高岡郡の中心地となる。無論、本拠は今の松尾八幡宮。八幡神を祭神とする八幡宮は、平安前期の新興勢力たる草創期の武士が地方支配地に建てる神仏習合の神社だ。古事記や日本書紀の神様を祀らない。つまり、高岡は、古代豪族から初期武士勢力へと変貌する高岡氏が、仁淀川以西の新たな支配者として君臨し覇を唱えた地で、神仏習合の時代へ移行したシンボリックな地と言える。吾川郷(日高村)は高岡郡に編入され、吾川郡の中心地はなくなった。以後、吉良氏(吉良よし子のご先祖)が土佐戦国七雄の一として活躍する16世紀まで、吾川郡は日陰の寂しい地域となる。郡の首府を喪失し、小村神社は古(いにしえ)の神社となった。そして、そこからさらに史料に記録されない political change が起き、平安後期、高岡の支配者は蓮池氏に替わる。後にも先にも、土佐市の歴史で最も有名な蓮池家綱が登場する。
高岡荘は四天王寺に寄進されていた。宗教が神仏習合の新興勢力(武士)の神様に替わるように、土地は高岡郷から高岡庄に移ろい、古代から中世へと歴史は進む。事情と経緯は不明だが、高岡氏が没落して蓮池氏が勃興した。ここで高岡郷あるいは高岡庄について考察すると、その実体は、清滝山の真下に位置する山際の灘・鳴川地区から流れて波介川に注ぐ、おめじ川・火渡川流域に開発された狭い田園地帯と住居および農民群である。きわめて小さな川だが、この周辺が一定規模の米作の生産基地で、初発の郷を構成し、古代中世の荘園を成立させた。想像しないといけないのは、仁淀川の堤防が未だない図である。大雨が降り、大水が出ると、火渡川を越えて蓮池城のある城山の下まで泥水に漬かった。現在の、中島、高石、芝、東町、等々の広い平地部分は、すべて仁淀川の泥水に漬かる湿地帯で、住居どころか耕作地ですらなかった。
蓮池家綱の活躍についてはネットに資料も多くあり、詳説する必要はあるまい。高知城博物館の年表にも堂々と名前が載っている。この人が土佐市の最も有名な人物で、その次が中島信行だろう。源平の乱(治承・寿永の乱)で滅び、入れ替わりに、土佐市の地の支配者として静岡県清水から大平氏が来る(四天王寺と言い、何やら因縁めいていて慄然とする)。平氏残存勢力は落人となって山奥の秘境に逃げ、鎌倉幕府肝煎りでこの地を東国武士が治める。駿河から四国に赴任した大平氏には二派あり、一派は讃岐に入って大平正芳のご先祖となり、土佐に入った一派が蓮池城の主となってこの地の地頭となった。日曜市で繁盛する芋天ぷら業者のご先祖だ。仁淀川の水運・交易を押さえて栄え、土佐戦国七雄の一となり、守護細川氏お気に入りの有力配下となる。12世紀から16世紀末までの中世500年間、土佐市の中心地は蓮池となる。もし、兼山の堤防建設がなければ、この町は蓮池市という名前になっていたのではないか。
市の蓮池地区の南端に古市という集落がある。蓮池城から1キロほど南に位置し、波介川北岸に接している。当時小さな川湊があり、大平氏の時代、この場所に市が立った。中世の土佐市の唯一の繁華街だ。京から商業者である白拍子の一団が華やかにやって来て、京の物資と地産品を積み替え、夜は蓮池城の御館様の前で踊り、翌日は松尾八幡宮に舞を奉納し、京に帰るという光景があったと想像する。おそらく、大きな川湊である新居で船を乗り換え、室戸岬を廻る外洋航路に出て淀川を遡ったのだろう。大平氏は頻繁に守護細川氏のお供をして京で遊んだ。仁淀川の水運で儲けた富を京で散財した。ゆえに土佐戦国七雄の中で富国強兵に遅れ、東の長宗我部氏と西の一条氏に挟撃されて呆気なく滅んでしまう。吉良氏は南学を残したが、大平氏は何も残さなかった。京で遊興したのみである。清滝寺は、仁淀川を監視する見張り所の役割も果たしていたのではないか。
以上が中世末までの土佐市の歴史である。ジオラマを制作・展示して地元の小中学生の前で説明したい欲望に駆られる。近世以降の、兼山の堤防工事と鎌田井筋以降の話は割愛してよいだろう。土佐の歴史で興味深いのは、何と言っても古代中世だ。兼山が暗殺されていなければ、ひょっとして、この地に南学の塾でも作ってくれ、文化を興してくれたのではないかと、ムシのいい藩政期の絵を想像する。余談として、市中心部には松尾八幡宮と並んでもう一つの神社がある。三島神社。河田小龍が描いた絵馬があるらしい。市民に親しまれている神社だが、その由来を聞いたことがなかった。名前から簡単に分かるとおり、大三島の大山祇神社の出店である。つまり、スーパーフジの高岡支店であり、伊予銀行高岡支店だった。梼原町や津野町にもあり、逞しく南進して土佐市に支店を築いた。おそらく土佐市の三島神社が最も奥に進んだ出先だろう。さすがに伊予は商売が上手だと感心する。
ということで、高岡氏は日高村からやってきて土佐市を作ったので、すなわち日高村は父祖の地であり、個人的アイディアとして、尊敬する日高村に「南風」を進呈したい。
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