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折田楓を庇護し公選法違反を曖昧化するマスコミ - 斎藤元彦の無法政治と鉄面皮

先週の 11/20、西宮市のPR会社 merchu 社長の折田楓が note 記事を公開、自ら企画・立案・実践した兵庫県知事選のSNS広報戦略の経緯と内容を(誇らしく)明らかにした。それが瞬時に問題となり、公選法違反の買収に当たると指摘がされ、そこから糾弾騒動が始まった。先週末、ネット上に次から次へと新たな証拠情報が掘り出され、分析と法律的検討が加えられ、猛スピードで集合知が堆積されて事件の全体像が明らかになった。斎藤元彦の犯罪が証明された。2014年の小保方晴子の事件を想起させられるが、今回のXでの集合知運動は、10年前の5chで展開されたそれより圧倒的に速くダイナミックで、写真や動画が多く説得的で、週末3日間(11/22-24)は刮目と興奮でPCの前から離れられなかった。11/17 の知事選投開票以来、この国の政局の中心は東京から兵庫に移動した感がある。まるで幕末だ。週が明けて、議論の主舞台はテレビに移った。

テレビ報道がこの問題を取り上げると、途端に事件の輪郭は曖昧模糊となり、関与者の責任がボヤかされ、核心が空ろなグレーな事案にスリ替えられて行った。野村修也を筆頭とするところの、斎藤元彦をシロにしようとする佞悪な反動論者が言説の攻勢をかけ、事実関係と法律解釈を歪める作戦に出て、テレビでの事件像をあやふやな位相へ押し戻している。折田楓の写真や動画も、なぜかテレビでは顔をボカシ加工した絵で映され、名前も匿名化されて”慎重に”紹介されている。それゆえ、視聴者の目からは、本来明確な公選法違反の事件性が不明瞭な印象となり、野村修也藤川晋之助の詭弁が功を奏する事態となっている。予想していたことだけれど、テレビはアドミニ権力の反動の工作機関であり、クロをシロに改変捏造して権力者の犯罪を免責処理する装置だ。なぜ折田楓の顔をボカして放送しなくてはならないのか、理解できない。憚り庇う理由は何なのか。

嘗ての、梨元勝が活躍していた頃のテレビと事件報道なら、このような不毛で不自然な「遠慮会釈」は排し、躊躇なくストレートに視聴者のニーズと知る権利に応える取材を試みただろう。全盛期の梨元勝がいま健在なら、折田楓にマイクを突きつけるスクープ映像を撮って見せただろうし、経歴人脈も詳細に掘って伝えただろうと想像する。民放には「正確で迅速な報道」という基準があり、それはジャーナリズムの使命と要件でもある。無論、そこには報道対象となる個人に対する人権・プライバシー尊重の義務があり、取材する側は、言わば矛盾する二つの原則の中で緊張と均衡をもって動くものだ。そのときのマスコミ報道側のバランスの取り方が、過去と現在とは違っていて、昔のレポーターは権力者側のプライバシーに容赦せず、視聴者国民の要求に応えて突撃していた。今は権力者側にばかり忖度し、過剰に気配りし、逆に庶民側の人権・プライバシーには配慮しない。

先週末の怒涛の集合知の状況から較べれば、現時点は、事件の解明と解決への積極的空気感 - 捕り物が始まる期待感 - は少し後退したかもしれない。反動側の押し戻しを許してしまった。例えば、先週末のXタイムラインでは、柿沢未途が逮捕された事件が引き合いに出され、柿沢が有料ネット広告に関与した公選法違反容疑で立件された事実が確認された。ネット広告を発注し掲載した江東区長の木村弥生も、捜査を受けて辞任に追い込まれている。基本的に今回の斎藤元彦の事件と同じ類型であり、前例の犯罪あるいは不正と言える。ところが、週が明けて騒々しく報道を始めたテレビは、解説で柿沢未途の件を一言も触れない。テレビだけ見ている者は、前例として柿沢未途の一件があるという認識を持てないだろう。その認識を持つかどうかで今回の事件への視線も違ってくる。テレビは柿沢未途の事件を隠蔽している。コメンテーターは材料として情報提供するべきだ。

テレビ報道では、折田楓が、斎藤陣営の広報全般を仕切っていると豪語している動画をストリーミング紹介しない。折田楓の人物像と、今回の事件の真実と本質をよく表すこの絵を生放送すれば、スタジオのコメンテーターの空気も、視聴者の事件への認識も、全く異なってくるに違いない。折田楓は、選挙PRを主担しながら、公職選挙法の罰則規定を全く知らないのであり、総務省のガイドラインに無知なのである。だから、得意になって有頂天で自分の"活動と実績”を自慢している。間抜けに吹聴している。それは、次の選挙の”広報”をビジネスとして受注するためであり、事業の拡大と利益の追求のため、自分と会社を無邪気に露骨に宣伝しているのだ。


この動画とか、高級ブランドのバッグを威張って見せびらかせている絵を番組で提示すれば、折田楓が極端に虚栄心と自己顕示欲の強い性格だと視聴者は理解するし、そのグロテスクさに驚嘆し、特に女性層は不快感と滑稽感を覚えて閉口するだろう。そうした報道からの印象は、事件の有罪性を納得する心証に繋がるものだ。だが(と言うかそれゆえにと言うか)、テレビは折田楓の顔をボカし、選挙運動への関与を端役的な小さな存在感にして、視聴者の批判的関心が向かないようにイメージ処理している。実際には、本人が鼻高々で豪語するとおり、選挙運動で跳梁した主役であり、八面六臂でプロパガンダを演出・扇動した選対中枢メンバーであるにもかかわらず。

テレビはこの事件を正確に報道せず、斎藤元彦の主張の「正当性」を追認するコメントばかりを御用コメンテーターに吐かせている。けれども、出演者の中で若狭勝だけは(現在のところ)正しい解説をしている。法曹家らしい態度で問題点を嚙み砕いていて、専門家が提供する標準的な知見と言える法律論だと頷けた。公職選挙法の建てつけ(理念・設計仕様)に論及し、複雑に見える罰則規定の趣旨と構造を整理し、法の原則をこの事件に適用して見解を述べている。要するに、公職選挙の選挙運動にはお金をかけてはいけないという221条以下の原則があり、お金を使っていい例外事項が規定されているという意味なのだ。選挙運動に資金を使ってよく、利権を使ってよいとすれば、資金や利権を持つ者が選挙を有利に戦える。法はそれを禁止し排除していて、公職選挙の選挙運動は無償奉仕で清廉潔白に、純粋に政策論争だけで、同志友人の労力提供だけでキャリーしなくてはいけない。

なので、斎藤元彦の場合は、折田楓とPR会社が行った広報戦略等の選挙運動が、金銭を払っていれば買収(公選法)となり、金銭を払ってなくても公務員の事前収賄(刑法)になるのだと若狭勝は喝破する。挟み撃ちの論理構成でアウトだと判断する。この説明はテレビで何度か生放送されたが、11/25 のプライムニュースが決定版だった。若狭勝の解釈とは別に、SNS広報戦略(公式アカウント管理運用・公式インスタライブ撮影配信等々)の部分について、金銭を支払ってない場合のサービス提供を、政治資金規正法上の寄付行為に該当するという見解も出されている。上脇博之もその主張をしていて、寄付した側、寄付された側の両者に刑事罰が適用されると言う。今年、日本の政治を変えた英雄である政治学者がこう述べると、俄然、議論に信憑性と説得力が生じ、斎藤元彦と折田楓のクロは明白という心証を強くする。二人ともクロなのだ。なぜ、折田楓の顔だけボカシが入るのだろう。

今回の問題をめぐる論点の一つとして、斎藤元彦は元総務官僚なのに公職選挙法を知らなかったのか、それとも知りながらこの容疑事実を行ったのかという点がある。私は後者の意見の立場だ。キャリアの元総務官僚が公職選挙法の罰則規定や総務省のガイドラインを知らないなどあり得ない。むしろ、それを熟知して、法解釈を巧妙に操作してグレーの部分を作り出し、屁理屈を捏ねてクロをシロにするのが官僚だ。官僚は法律のプロである。今回の斎藤元彦はどうだったかと言うと、まさか、折田楓があのようなヘマをしでかすとは予想してなかったのだろう。しかも選挙から4日後に。計算外だったのだ。いずれは発覚して問題化するという想定はあったのだろうが、その前に、相生市長がひれ伏したような勝利の絵を積み重ね、維新支配下の関西マスコミの与力で百条委も突破し、選挙PR問題(公選法違反)が少々出たところで動揺することのない斎藤王国体制を固める思惑だったに違いない。

だが、そうだとしても、あのような公選法違反を堂々と躊躇せず実行するという神経が、常識からすれば尋常ではないし、それは、あの立花孝志の凶悪な暴力をこの選挙に持ち込んで、自分が選挙に勝つために活用したという一事も全く同じである。時間軸を長くして見れば、公益通報者保護法を踏み躙り、告発者を探し出して本人の弱みとなるプライバシーを握り、脅迫して死に追いやり、さらには故人を誹謗中傷して名誉棄損しまくるという悪業も同じだろう。常軌を逸した幾多のパワハラやタカリも同じである。全国から非難が集まる中、斎藤元彦は鉄面皮の開き直りを通し続け、精神がどこか異常ではないかと世間から訝られた。思い出すのは、丸山真男軍国支配者の精神形態で、ドイツのファシズム政権幹部のアブノーマルに触れていた点と、「無法者」の概念がキーワードになっていた点である。法を堂々と violate する者がファシズムの政治に登場し、その政治を強引に牽引し全面化する。

斎藤元彦を見て直観するのは「無法」の契機であり、無法政治の表象であり、その台頭と常態化だ。そこには、無法政治を歓迎し喝采を送って下から支持する、エーリッヒ・フロム的な憂鬱な愚衆現象がある。けれども、よく考えてみれば、それは今年始まった問題ではない。橋下徹がそうだったし、安倍晋三がそうだった。森友、加計、桜を見る会..恐ろしい無法がまかり通り、司法が止めず、マスコミも素通りさせ、国民が選挙で止められなかった。司法も、マスコミも、アカデミーも、橋下徹と安倍晋三の無法政治を正当化し合法化するばかりだった。斎藤元彦は橋下轍や安倍晋三を見倣っているのであり、彼らの成功体験を延長した政治行動を実践しているのであり、彼らと同じように自分は成功して勝利すると確信しているのだろう。もっと言えば、海の向こうの宗主国アメリカには無法政治の権化のようなトランプがいる。"模範的なリーダー"たちに彼はラディカルに準拠しているだけだ。

市民の告発を見守りたい。集合知の渦を作って無法政治の席捲と暴威にカウンターした市民たちに拍手を送り、この問題の注視を続けたい。私は、捜査当局は動くだろうと、希望的観測と言うより客観的予測に近いスタンスで今後を占っている。少なくとも立花孝志の逮捕はあるだろう。それは法治国家として必須で必然の進行だ。そのフェーズへ踏み進めば、立花孝志ルートだけでなく、次に折田楓ルートが立ち上がり、総合的で大型の令和の捕り物(斎藤元彦事件!)が組み上がるはずで、世論の支持を受けつつ、検察の面目一新とか大阪地検特捜部の復活という方向へ発展するはずだ。立花孝志だけを捕って幕引きにはできない。それでは片手落ちになる。捜査機関の実務の若手の者たちが競争して成果に努め、墜ちきった検察の威信を回復させようと励むだろう。そのように楽観的に展望したい。今、菅義偉と維新が必死で阻止と妨害に動いているに違いない。最終的に決めるのは石破茂だ。


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