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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#27 ヒロシの自立

男性の障害者を紹介しよう。彼は重度センターに16歳で入ってきたヒロシという青年だった。煙草を吸い酒を飲む、ちょっとやんちゃな弟。まあ弟といっても相当歳は離れているのだが。

俺がサクセスハイツマルコに住んで、ちょうど自立支援センターを立ち上げた頃、彼は「太陽の家」の厚生援護施設にいた。昼間は福祉工場で作業をして、それ以外の時間は寮の中で生活をしていた。

酒を飲むのが好きで、よくその太陽の家の中にある食堂で夜、飲んでいた。ときどき、俺も遊びに行っては一緒に酒を飲みながら、昔の思い出話などをしていた。

そんな中で彼が、
「米倉さんはサクセスハイツマルコで自立生活をしているけど、楽しいですか?」
と、聞いてきたことがある。

「まあ、なかなか大変な生活だけど、自分の好きなときに起きて、自分の好きなときに食事もできる。風呂にも入れるし、Hなビデオも観れる。なかなか儲からないけど仕事もしているよ」
そんな話を返したように記憶している。

それから何回も会って話をしているうちに、
「俺もアパートで一人暮らしをしてみたい」
と、言い始めた。

一人暮らしをする覚悟があれば、障害者の自立を支援しているから協力するよということで、ピア・カウンセリングと自立生活プログラムを受けてもらうようになった。

彼は自立したいという気持ちが強かったので、ピア・カウンセリングよりもどちらかというと、自立生活プログラムが中心だった。

どういう仕事をして稼ぎ、どういうところに住むか。その頃、サクセスハイツマルコはもう一杯だったので、まずは家探しを考えた。

しかし、別府でもいろいろ探したのだが、なかなか見つからない。その頃、大分にも自立支援センターの出張所をつくろうという話もあったので、一戸建てを探して、半分を事務所に、半分を彼の住宅にすることを考えた。

自立支援の中でいつもネックとなる、このアパート探しのことをもう少し話そう。

まず自立生活を始めるには住むところが必要になる。ところが、アパートやマンショ ンで探しても、段差があるところも多く、なかなか見つからない。段差が差ほどない、広さもいいなと思っても、例えば大家が貸すことを渋ったりすることもある。

障害者 が車いすで生活をするとなると、一筋縄ではいかないのは分かってもいる。その中で 思いついたのが、一戸建て形式のアパート、これで平屋を探すことだった。

築年数が 結構経っているものも多いが、こうした物件の利点は、ベランダの方からスロープを 取り付けることができることだ。スロープであったり、リフトであったり、少々改造 にお金はかかるが、これであれば、ベランダのサッシ部分から出入りができるので、段差はあまり関係なくなる。

次に難しいのがトイレと風呂。トイレと風呂は基本的に はとても狭く、決まったサイズになっている。例えばトイレの場合、トイレの横に押 入れくらいのスペースがあれば、それと一緒にして広いお座敷トイレに改造もできる。

お風呂は浴槽につかることは諦めて、入口から浴槽全体を車いすの高さにしてシャワ ーだけで使うようにする。そういうことができる平屋のアパートを探し、彼の住宅もそんな中から見つけた。とても静かで使い勝手のいい住宅だ。

彼には大分市のその住宅兼出張所で、昼間はパソコンを使って仕事をしてもらう。ホームページづくりや、パソコンを使ったデスクワークをしてもらった。

彼は酒が好きで、仕事が終わった後は毎晩のように晩酌をしていて、太陽の家の友達などもよくその大分の事務所に遊びに来ていた。俺らもときどき、遊びに行って一緒に飲んだりしたのを覚えている。

ところが、途中何度か体調が悪いという話が出たので、お酒を控えるように言っていたのだが、なかなかやめることはできなかったようだ。

ある朝ヘルパーから、突然電話がかかってきて、彼が返事をしない、なにかおかし いという内容であった。急いで救急車を呼ぶように伝え、俺たちはスタッフ4、5人で、救急車が向かった病院に駆け付けた。

病院に着くと、彼の顔には白い布がかけられ静 かに眠っていた。白い布をまくって顔を見ると、涙が止めどなくあふれてきた。この 若さでなぜ……。

医師の話では心不全で亡くなったという。安らかな表情で眠るよう に亡くなったという。

彼は、自己選択、自己決定、自己責任で自立生活をまっとうした。自立生活をしなければ、酒を飲み過ぎず、もっと長生きができたのかもしれない。

お父さんとお会いしたときにその話になったが、施設にいても同じ行動を取っただろうということになった。ときどき、お父さんに電話して、自立生活の楽しさを話していたそうだ。それを聞いて少し心が休まった。ひとりで暮らすことのリスクとして、障害者、健常者を問わず考えさせられる出来事だった。

エリの自立

次は女性の障害者を紹介しよう。彼女はとても積極的なエリという子だった。年齢からすると俺の娘くらいだろうか。美人な顔立ちで、うちの自立生活センターのことは東京にいたときから知っていたそうだ。

そして別府重度障害者センターに入り、サクセスハイツマルコに彼女は自分から訪ねて来た。そして、
「私は自立生活がしたい」
と、熱く自分の想いを語ってくれた。

ちょうどユニバーサルマンションの建設の話が進んでいた時期でもあった。就職試験に受かれば、ユニバーサルマンションに住んで自立生活をスタートするのもいいのではないかということで、彼女のピア・カウンセリングと自立生活プログラムが始まった。

とても元気がよくて、ピア・カウンセリングにも積極的に参加し、自立生活プログラムもしっかりと消化していった。彼女の場合、アパートを見つけることは、うちに就職すれば必要なかったので、自立生活プログラムは比較的に楽だった。

プログラムの中心に置いたのは、ヘルパーとの人間関係、ヘルパーの使い方だった。自己選択、自己決定、自己責任の考え方もよく理解してくれて、ヘルパーと一緒に料理を作ったり、身体介護をしてもらったり、家事介護をしてもらうという訓練を続けた。

そして、ユニバーサルマンションが完成し、自立生活センターおおいたの入社試験に合格し、うちのスタッフとなって念願の自立生活を送るようになった。

最初のうちは、就寝時間などでヘルパーとの揉め事も若干あったが、そんなこともすぐに乗り越え、自立支援センターおおいたのアイドル的存在となって、いつも職場を明るく楽しいものにしてくれた。

俺のことはボスと呼んでくれて、矢沢永吉のコンサートにも何度か一緒に行った。

障害者が親元や施設を離れて自立生活を始めるためには、必ず、あの人のように生活したい、あの人のように働きたいと思うようなロールモデルとなる障害者が必要となる。

これから、女性障害者が自立生活を思い描いてセンターを訪ねて来たとき、彼女こそが一番のロールモデルに育ってくれるに違いないと思ったものだ。


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