「若かりし」を引きずって歩く
坂口安吾が褒めちぎった物語のひとつに世阿弥の「檜垣」というものがある。かなり端折って説明すると、若かりし頃はその美貌でもって朝廷で楽しく暮らしていた給仕が、老婆になって自らの醜さに耐えきれず苦しみ、怨念となっていたところを、お坊さんが成仏させる話である。
坂口安吾は「青春論」のなかで、この物語の持つ美しさは女性でこそ成立するという旨を書いていた。確かにおじいちゃんではどうもピンと来ないかもしれない。私はこの話をざっくりとしか読んでいないが、確かに心揺さぶられるものがあった。
が、しかしである。「若さ」を懐かしがって後ろを向きながら歩むだけが残りの人生なのか。この称えられるべき美談を、これからも生きていく者としては美談のままには見過ごせない。
誰しも、心の奥底には「若さ」への執着とやらが淀みのようにこびりついているはずである。思い当たることが節々にある。若くてハツラツとしていた頃の話ばかりするお爺さん。美人だった大昔の頃の写真をガラケーに保存して、なぜかすぐ出せるようにしてあったドキュメント72時間のおばあさん。あげく小野小町までもが百人一首で若かった頃の歌を詠む。猫も杓子も「若い頃」のことばかりに夢中である。
傍から見てると、現状を直視できずに、あさっての方角ばかり見ている人だらけである(これは年齢に限った話ではないが)。
なぜ老いることの美しさを語らないのか。だれもかれも「若い頃」のままを維持しようと必死にしがみつく有り様である。なぜ紅葉の目の輝く赤色になろうとも、青葉の頃ばかりを懐かしむのか。お互いの孫を使ってポケモンバトルをすることだけが「老人」としての嗜みであったか。
こんなことばかりしているから高齢まで生きる気が失せる。当然の成り行きである。なのに、なぜか長生きが大流行りしている。まさか、「死ぬのが恐い」などというチンケな答えではあるまい。
紅葉がいよいよ自分の目と鼻のさきにくると、その良さが分からなくなるらしい。こんなこと言っておいて、なんだかんだ私も同じ道筋を通りそうである。でも、そんなものが人生なのか。私はまだ考えている途中である。
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