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ぼくの書き方とkotobaの感受性

はじめまして。

地方の医学生です。日々の気づきと、ややこしい医療を基に日記とエッセイを書きます。
今回の投稿では、ぼくの構えを表すネタを2本お送りします。

こんな感じの環境で執筆したい。

kotobaとぼく

人間は「kotoba」を生成し続ける生き物です。kotobaとは虚構そのもの。現実を凌駕するパワーを持つ道具であり、有史以来、人類は"自分自身"と"他者"に向けて体験を伝え、勇気付けてきました。

ぼくのエッセイで書くことは、きっとどこか遠い場所、違う時間の誰かのもとに届くでしょう。

そして、ここで書きたいことは、kotobaの効用で、書いている自分自身を励ますこと。未来の自分に「頑張れ」と、kotobaを通じて囁きたいのです。

ぽわっと、やさしさに包まれるエッセイを。確かに、ぼくではないあなたに読まれているんだけれども、時間が経って記事が古くなった頃、あなたが読んだ感覚で、自分のkotobaに自分が励まされる

だから……

お久しぶり。
元気にしてた?ぼくは元気なんだけど、あなたはどう?

#note初心者


#自己紹介
地方医大生。デザインとアート、総合診療の記事をよく読んでいます。
珈琲と良い景色。デザインとややこしい医療。


kotobaへの理解

敢えて「言葉」を「kotoba」と充てている理由は二つあります。

  1. 「言葉」というモノの定義の提案

  2. 雑誌『kotoba』へのリスペクトと哲学

ぼくはCOVID-19による災厄を経て、想うことがあります。
猛威を振うウイルスに怯えるよりも、「言葉」という道具を蔑ろに使ってきた人類に怯えていました
コロナに感染した人々とそれを取り巻く人々の喧騒をSNSで眺めてきましたが、ひどい。最初期に感染した医学部の先輩で、絶えない噂の洪水の只中で職を失った話を想ったり、ワクチンを接種する人としない人の間で巻き起こる長期的な議論で社会が分断されている話を想ったりして、心が痛かった。

この状況を作り出したのは、一体なんなのか。

何が原因だったのか。

考えを巡らすと、生物的な感染より人文的な感染が、人類にとってより深刻に働いたんじゃないかな、と危惧する訳です。先ほど、人間はkotoba(言葉)を生成し続ける生き物だと言いました。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』で言及された「認知革命(虚構を共有する能力獲得)」を思い出します。伝聞が次々と連鎖する様子、あの災厄を通じて痛感させられませんでしたか。
ですのでぼくは、ぼくたちを構成して文明に貢献してきた「言葉」という混沌の容れ物を丁寧に扱いたいと想っているのです。だから単に「言葉(ことば)」と書いてスピリチュアルに片付けない。敢えて「kotoba」と記載することで「ん?一瞬読みにくかったけど"コトバ"って書いてるのか」と素通りさせない不快感をデザインしました。
普段からあるモノを意識するのは大変です。だから、敢えて足踏みして考え直せるよう、アルファベットで記載しているのです。

2つ目の理由であった、雑誌『kotoba』へのリスペクトと哲学。
ぼくはこの本を読んでから、人間の本来的な性質について考えを巡らせるようになりました。

哲学的な側面で考えるようになり、今日のぼくを作ってくれた恩恵を示すため、令和的且つ原初的な概念の表現として「kotoba」を使わせてもらっています。リンク先の文章からは、言葉の紡ぎ手としての深い情念を感じさせます。そんな姿勢に共感したのもあって、しばらくは「kotoba」を使って考えを練っていきます。
哲学は、日記という手段を使って綴られるようなものだと考えています。エッセイ、とは試みの形であり、その原点になる日記というのは日常のkotobaを借りながら哲学に応用可能な文章に仕立てる有効な方法だと考えています。

今後は、日々の気づきから日記とエッセイを書いていきます。
簡単なことをメインに書きますが、いかんせんぼくの性格上、難しいことも書いてしまうかもしれません。なるべく簡単で、気付きが得られるような文章、そしてどこか遠くにいる人を励ませるような文章を目指します。

よろしくお願いします。

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