見出し画像

恋人か仇敵か アニー・ディラードの弁証法的レトリック

はじめに、アニー・ディラードとネイチャーライティング

アニーディラード(Aniie Dillard)はアメリカの女性エッセイストでアカデミックな界隈ではいわゆるネイチャーライターとして知られている。

アニー・ディラードの自然描写には、温厚で優しい自然もあれば、暴力的で鋭い自然もあり、繊細かつ大胆な表現を見ることができる。描写の対象に相反するような表現を重ねることで、言語に縛られた表象を破壊し、異化する様な鮮やかなレトリックを用いる。

矛盾性を孕んだ二つの表現を衝突させてより複雑なイメージを表現する手法は、まさにヘーゲルの弁証法に似ている。本稿ではアニー・ディラードの『イタチの生き方』、『テ ィンカー・クリークのほとりで』を中心にディラードの弁証法的なレトリックを用いた自然表象の特殊性について考察する。

さてさて、弁証法的レトリックとはなんぞや

第一に注目すべきはディラードの弁証法的レトリックが一文の中に効果的に使用されている箇所である。ディラードは『ティンカー・クリークのほとりで』における「祭壇の角」の章で、石切場の砂岩に横たわる蛇のそばに腰を下ろして蛇や周辺の環境をじっくりと描写をする。

蛇の形、大きさ、色彩、鱗、目玉といった全体や各部を鮮やかなメタファーを駆使しながら華麗に表現している。特筆すべきは、蛇の保護色が成す複雑な見た目を二つの相反する表現の重ね合わせによって描写しているテクストである。

周辺環境との関係性から生まれる複雑な保護色を

「わたしと蛇の間にある雑草に乱反射する光と、岩の向こうの石切場の池にたれこめいた深い夕闇とに混乱したのか、どっちつ かずのまだらになった保護色に身を包んでいた。」

アニー・ディラード著、金坂留美子 くぼたのぞみ訳「ティンカー・クリークのほとり で」1991 めるくまーる社 356ページ

と表現している。

雑草に反射する光と深い夕闇の対立するような表現を重ねるようにして対象の保護色の複雑さを巧妙に表現している。ディラードは雑草、岩、池といった周辺環境の記述のみで対象を描写することで定式化された色に還元してしまうことを避けていると考えられる。さらに、光や闇といった視覚情報を通して説明することも同様に、まだら模様を単純な色に置き換えることは不可能であることを示している。

具体的な色を用いず、周辺の環境情報を弁証法的に記述することは、読者それぞれの頭の中に異なった表象を浮かび上がらせる技術である。

矛盾した表現で自己を更新している!?

さらに興味深いことに、ディラードは章全体を通して同じ蛇を対象に相反する表現を重ねることで自己の中にある表象を異化して更新している。

はじめに、ディラードは「祭壇の角」の章において観察する蛇に対して傷ひとつない完璧性を見出す。しかし今度は石切場の斜面のギザギザや鱗にも穴を開ける蚊を媒介にして蛇も噛み刻まれていることを見出す。ディラードの思考はさらにミクロな寄生虫を媒介に進められ、見出した二つの矛盾する見方に対して新たな表現を獲得している。

二つの矛盾した概念の止揚(アウフヘーベン) によって新しい概念を獲得する様はまさに弁証法的なのである。以下では矛盾する表現と獲得した表現の三つを通してディラードの自然に対する姿勢を考察する。

まず、ディラードは蛇の観察から得た完璧性を二つのメタファーで示している。

「その体 は傷ひとつなく完璧だった。まるで、たった今その場で創造されたように、母なるものの 体内から出てきたばかりのように新鮮で、そうじゃないなんてとても思えなかった。」

アニー・ディラード著、金坂留美子 くぼたのぞみ訳「ティンカー・クリークのほとり で」1991 めるくまーる社 356ページ

「その場で創造されたように」が示すのは蛇の保護色はその周辺の事物と高い親和性をアドホックに創出しているということである。また、「体内から出てきたばかりのように」が示すのは傷のない体の艶やかな様を神秘性と共に感じさせるということである。

現実とは矛盾する非合理的な比喩を用いることなしに完璧さを表現することは不可能であるというディラードの自然に対する態度が読み取れる。

ネイチャーライター エドワード・アビーとの差異

ディラードの表現レトリックの特殊性は二十世紀の現代ネイチャーライターとの共通点や差異からも読み取ることができる。エドワード・アビーは著書『砂の楽園』にて二匹の蛇が絡みつく様を見つめて以下のように表現している。

「その熱狂は、性的なものか、戦いの熱狂か、それとも両者がないまぜになったものか。」

エドワード・アビー著、越智道雄訳「砂の楽園」1993 東京書籍 40ページ

この描写は感じ取った熱狂の複雑さを二つの表現を重ねて、一つのものにしている。つまりディラードと同様に、認識を単純な言語という代理物に還元してしまうことを意図的に避けていると考えられる。

注目すべき点は、性的なものと戦いを重ね合わせたアビーの表現と非常に親和性のある表現がディラードの『イタチの生き方』に登場するということだ。ディラードは森を抜けた先にある池の近くで野生のイタチに不意に遭遇し、

「私たちの視線はまるで恋人同士の視線、でなければ仇敵同士のそれだった。」

アニー・ディラード著、野田研一訳「イタチの生き方」1982 79ページ

のように、イタチと目を合わせた時に 生じた鮮烈な衝撃を巧みに表現した。初めて出会ったディラードとイタチは恋人でもなければ仇敵でもないはずだ。

すなわち、脳天を駆け抜けた複雑で鮮明な一撃を的確な言語で置き換えることは不可能であるが、その衝撃を陳腐化することなく共有する手段として弁証法的なレトリックを用いているに違いない。

アビーとディラードの表現は一見すると共通するレトリックに思えるが、そこには差異が見られる。「性的」には「恋人」が対応し、「戦いの熱狂」には「仇敵」が対応しており、 全く異質な二つの概念を並列させて単純な言語化を避けている点では共通している。

だが、 アビーは二匹の蛇のつがいを恋人として認識していることを以下のように強調している。

「正式の恋人同士の対舞にそっくりだ」

エドワード・アビー著、越智道雄訳「砂の楽園」1993 東京書籍 41ページ

つまり、アビーのレトリックは前者の「性的」 のニュアンスをより異質にするために「戦いの熱狂」が用いられているのだ。対して、ディラードが表現するイメージはそのどちらでもないのである。

すなわち、二つの表現をぶつけて全く異質のイメージを生起させるディラードのレトリックはより弁証法的である。 そして同時に、ディラードの方がより二つの表現間に緊張関係があり、それらがぶつかった時の衝突力が大きいと考えられる。

まとめ

ディラードは任意の自然対象を弁証法的なレトリックを用いて描写することで鮮麗さや複雑さを言語に還元することなく表現しているのではないだろうか。
それは同時に、全てを理解することができない自然という絶対的他者を言語のみで代理表現することは不可能である、という姿勢が読み取れる。
ディラードは理解不可能な自然に対して絶えず弁証法的にアプローチすることで自己を更新し続けている。
ディラードの弁証法的なアプローチのプロセスは自然表象にとどまらず現代のあらゆる複雑な問題に対しても一石を投じるに違いない。


注)旺文社世界史事典 三訂版 「弁証法」:矛盾や対立のもつ意義を認め,それを取 り入れて事物の運動を説明しようとする論理。近代哲学ではヘーゲルが,事物の発展を自己と自己矛盾とそれらの止揚(アウフヘーベン)による新しいものへの移行としてとら え,観念論的弁証法を大成した。

本稿で用いる「弁証法的」とは、矛盾性を持った二つの概念を組み合わせて異なる概念を表現しようとする様である。

参考文献
アニー・ディラード著、金坂留美子 くぼたのぞみ訳「ティンカー・クリークのほとり で」1991 めるくまーる社
アニー・ディラード著、野田研一訳「イタチの生き方」1982
エドワード・アビー著、越智道雄訳「砂の楽園」1993 東京書籍

いいなと思ったら応援しよう!