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L:52 善意の自然発芽

2024.1.7

数年前にBlack Lives Matter運動が起こった時に、アメリカに住んでいるYoutuberか誰かが、日本人は黒人の差別の歴史をもっと知るべきだというようなことを言っていた。日本人は意識が低いとまでは言ってなかったが、積極的に動かないことをネガティブに捉えているような発言だった覚えがある。

私はそれをいい気持ちで見られなかった。正論で反論の余地がないということとなんかずるい(幼稚な言い方だが)感じがしたからだ。より問題の主語が大きかったり、歴史が長かったりするものに問題意識を向けている方が偉いというニュアンスに取れたからだと思う。天下国家の問題を論じる方が、家族の問題を論じるよりえらいというか。

大災害、大事故が起きるとみんなで助け合おう、動こう、募金しようというような社会的なムーブメントが以前よりよく起こるようになった。ネットの力も大きいと思う。

私の場合、近しい人が、直接的な被害を受けていない場合、やや当事者意識が薄い(深刻になっていない)自分がいて、必ずしも積極的に何かをしないこともあったように思う。その中で上記のようなネット上の運動を呼びかけるものを見るたびに、

自分は薄情なのかとか、自己中心的なのか、視野が狭いから、関心が持てないんじゃないかとか、自分が人間的に欠落している部分があるんじゃないかと思っていた。

自分の善意みたいなものが歳の割には未成熟な気がしていた(歳の割がどんんなものか知らないが)。

しかし、最近は善意の醸成というのは、歳をとれば自然にされるものなんじゃないかとも思うようになった

他の人が善意をどのように自分の中に醸成するかわからないが、自分の場合、誰かに言われて、その通りだと感化され、遠くの誰かのために善意が湧き出てくるわけではない。おそらくそれは、自分を責めることでもないだろう。もちろん、そうやって善意を湧き出せる人は尊敬する。

そんな私でも、思い返して見ると、想像力のアンテナもずいぶんと広がっている。別に何か強い意志を持たずとも、サウジで何か起これば心配になるし、サウジで関係のあった別の国の人の故郷で何か起これば、その人の顔が思い浮かび、大丈夫だろうかと思う。

別に外国人に限らなくても、自分が仲よくしている人、大切な人、その人たちにとって縁のある土地、人に何か問題があったと聞けば、それなりに心配というか、よくなるように力添えしたいと自然に思っていることが増えてきた。

今回の地震で言うと、私の親戚や友人は大きな被害にあってはいない(と思っている)。それで、インスタグラムを見ていたら、フォローしているガラス作家の方で被災されていることを知った。大きな被害ではなかったようだが、大変なことだなぁと、少しでも役に立つことができればなぁと思っていた。

ガラス作家の方は当然、私のことは知らないだろうし、私も会ったこともないし、顔だってよくわからない。ただ、作品を見て、インスタグラムを数ヶ月前にフォローしただけだ。

つまり、歳をとれば、それなりに出会う人も増えるし、場合によってはいろいろな場所に住む、そして今の時代、出会ってもないし、一方的な面識のようなものもある。縁もゆかりも増えるものだ。

その中でその人たちの出来事を自分の心に引き寄せて想像できるくらいには、自分の善意は醸成されているように思う(自分で善意がありますと言うのは、恥ずかしい言い方だが)私は、別に深刻でなかった自分を責めて傷つく必要もなかったのだろう。

少し話がそれるが、Facebookで友達が増えてくると、そのうち毎日が誰かの誕生日になるだろう。毎日が誰かにとって、特別な日だ。めでたいと思う。しかし、同時に、それが誰かの命日であることもある。本当に当たり前のことなのだけど、誰かの誕生日は誰かの命日なのだ。

だから、自分の人や環境との関わりの中で自分なりに思いを馳せ、無理してもしなくても、できることをすれば、それは尊いことなのだと思う。また、しばしば、あ〜した方が、こ〜した方がと言う人たちもいるとは思うが、それを真に受けることもない。変に引っ張られないように落ち着いていたいと思う。

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駄々こね太/ Essayist
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