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74.自然とは

少し前にこんな記事を読んだ。

記事の内容を簡単に言うと、「自然」に触れることを治療として利用しているというものだ。ここで書かれている自然というのは、農業のような土いじりや緑地で過ごすことだったり、海で過ごすことのようだ。それが、体にいいことが科学的にも証明されてきているとのことだ。

「自然」という言葉を聞くと、なんとなくがイメージとして浮かぶ。その観点からすると、リヤドには自然がないように思う。リヤドの色は基本的には「砂色」「ベージュ」、川もない。人工的に緑を植えている場所もあるし、場所によっては緑が自生しているところもわずかにあるのだが、木々が生い茂るという緑をリヤドで見るのは難しい。

今年の夏、一時帰国した時に成田からの電車で車窓から木々が生い茂る「緑色」を見た時、緑が本当にまぶしく見えた。目が自然の緑に慣れていない感覚だった。

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↑成田からの車窓ではないけど、この感じの緑がまぶしかった。

記事のように、リヤドで自然を処方するのは難しいのだろうか…

リヤドにいて、楽しめることの一つに「砂漠に行く」というのがある。私の場合は連れて行ってもらってるのだけど、チャンスがあれば、砂漠に行くようにしている。

砂漠と言うと、鳥取砂丘のような砂がさらさらな場所をイメージするのだけど、確かにそういうThe 砂漠というのもある。

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しかし、私がよく行くのはどちらかというと土漠と言われるような所ではないかと思っている。

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さらさらというより、ごつごつした石と砂が混じった地面と、山あり谷あり、固い地層が削られた地形の土漠。

歩くための道があるわけでもなく、なんとなく前に人が通って道っぽくなった道を歩く。人工的な音がない。風の音と自分の足音だけが聞こえる。自分で歩けそうな道を決めて歩く。ごつごつした石の刺激が固い靴底からでも伝わってくる。誰がこんな削り方をしたんだろうという地形。

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こんな環境でも育つ植物。受粉するため蜂を誘うような鮮やかな色合いというより、ラクダのような捕食者から身を守るために進化したような植物。

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夕暮れ前の数時間で、空と雲の色が刻々と変化する。

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1時間かけて1万歩ぐらい歩く。

そうすると、日々の過剰な刺激で疲れた知覚や心からイガイガしたものを砂漠が吸い取ってくれるようなそんな感覚がある。デトックス。そんな日は心地よい疲れと共によく眠れる。

自然という言葉の意味には

人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態

という意味もある。この意味でいけば、リヤド(郊外)にも自然は多い。人間の手の加わらない場所が多く残っている。

なんとなく疲れている時ほど砂漠に行きたくなるのは、自然の治癒力を体が欲しているからかもしれない。

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*夜、火なんか焚くとさらによい。

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駄々こね太/ Essayist
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