「~すればいいですか?」は自分で自分の首を絞めてる
ゼミで「~すればいいですか?」と質問されると、うむむとなってしまう。
たとえば、課題のリテイクに対して「じゃあ、構成をなおせばいいですか?」と聞いてくる。
困る。
構成がデタラメなリポートだったので、ていねいに構成の立て方を説明した。そこが改善できれば、だいぶましなリポートになるだろう。だが「構成だけをなおす」というのは無理な話なのだ。構成はあらゆるところと密接に絡み合っている。
4コマ漫画を例にとろう。「オチが弱いんだよな」と言ったときに、「オチのコマをなおせばいい」と考えるのは短絡的だ。オチにいたるまでのフリ、1コマ目から3コマ目もふくめて、4コマ全体を考え直す必要がある。「オチのコマのずっこけた人のずっこけ具合を大袈裟にする」といった修正では「オチは強くならない」。
伝えたいことがあって、なぜだか伝わらない。その原因がここなのではないかと指摘されて、あ、そうか!ってなっているか、どうか。なっていれば、「構成だけをなおせばいい」という発想にはならない。
「~すればいいですか?」という質問がでるとき、それ以外のことは考えたくないという気持ちが伝わってくる。そうなると、違うんだよなーってなってしまう。腑に落ちていないという表明だ。
だから、こういう質問をされたときには、指摘の仕方が悪かったのだろうと考えて、別の説明を試みる。
自分が表現したいことがうまく表現できていないくて困っている、原因もわからないし、どうしていいのかわからない。その状態で「こうしてみては?」というアドバイスが効くことはある。
それは、アドバイスをもとに、自分が伝えたいことを伝えるように本人が考えるという道のりが見えてくるからだ。
受け手が、「言われたとおりにするから、どうしたらいいのか言ってくれ」という受け身の姿勢になっていると、アドバイスはできない。そもそも、こちらが、何かやってほしくて、お願いしているわけではないのだ。
「やらされてる」感覚になっている限り、課題は、うまく機能しない(もちろん学校という仕組みそのものが歪みを抱えているという問題は、また別の問題として考えなければならない)。
いいのかどうかは、自分で考える。「これがいい!」というものを作り上げて、提出する。先生が、ダメだと言って、納得できたら改善する。納得できなかったら質問する。それが、課題本来のありかただ。
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