儀式とゲーム
「記憶交換ノ儀式」をやっている。1日10回以上の儀式を執り行って、今日で最後9日目だ(本日12/15「これはゲームなのか?展#2」最終日です)。90回以上、儀式を回したことになる。
そうなると、儀式とはなんぞやと考える。少なくともより儀式にするためにはどうすればいいかを、毎回、考えてしまう。
以下、考えていることのメモ。(儀式的なるものと、ゲーム的なるものを比較しているが、もちろん、どちらが良くてどちらが悪い、ということではない)
たとえば、儀式のなかで以下のようなシーンが登場する。
「(他人の記憶の断片を見て)記憶を再構築するための5分間です。それでは、はじまります」
このとき、5分間そこに向き合える状況がつくれれば、それはとても儀式的だ。
だが、ゲーム的な状況だったり、ゲーム的な態度で挑む人は、数秒で「できました」と言う。おそらく、ほとんどのゲームが「速く整うと良い」からだろう。
たとえば、儀式のなかで、3枚のカードから1枚を全員の協議で選ぶシーンがある。
どうやって選ぶか、どれにすべきか、誰の手で選ぶか、静かに議論し、その場の状況をつくることは、とても儀式的だ。
一方で、いっせいに指差して決めたり、じゃんけんで決める人を決めたりするのは、とてもゲーム的だ(もしくは、どのようにして決めるかを明示すべきだと考える)。
たとえば、儀式長は、黙って、本当に必要なことしか言わない。それどころか、しゃべりの間や、ちょっとした動きで、行動を示唆する。というのは、とても儀式的だ。
一方で、しっかりと明確に実例と言葉によって基本ルールを伝え、勝利条件を伝えようとするのは、とてもゲーム的だ。
儀式中に質問があっても、その多くは「儀式ですから」以上のことが答えられないのは、とても儀式的だ。
質問があれば、ていねいに答え、ゲーム内で何をしてよくて何をしてはいけないのか明示されるのは、とてもゲーム的だ。(おうおうにして儀式長は不親切で、ゲームのインストをする人はとても親切だ)
ゲームでは、カードをシャッフルしたり配ったり、みんなが基本ルールを把握することは、「準備」だ。プレイコストを下げるために、その「準備」はなるべく簡素であるべきで、効率を良くすべき部分だ。
だが、儀式において、それは「準備」ではなく、儀式そのものだ。
どちらもルールがあり、複数人が集まってルールに従って行動するという点で、儀式とゲームはとても似ている。
だが、その中で目指すベクトルは、真反対といっていいほど、違う。
真反対といっていいほど違う「儀式」を作ってみることによって、「ゲームをデザインするとはどういうことか」が照らされる。
サポートいただいたら、記事に還元できることに使います。表現道場マガジンをよろしく! また、記事単体で購入できますが、月額800円「表現道場マガジン」がお得です。