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ある恋の物語

このことは忘れるわけがないんだけど、忘れたくないからあえて書く。

私の元嫁との出会いの話。

今は離婚してるけど、元嫁は今でも素敵な女性で尊敬してるし、幸せになって欲しいと本当に思っている。そしてそれができない自分は彼女を人生ごと台無しにしてしまうので、それを避けるために離婚した。私は今でも自己嫌悪している。もっと稼げれば、もっと愛があれば。でもそれは私には足りなかったのだ。

でも元嫁とは素敵な恋をしたし、素敵な新婚生活もした。そのことは揺るがない。だからそれを守れなかった私は自分を今でも許す気はない。

それはともかく、どんな恋のはじまりだったか、その話をする。

それは私が大学浪人でテツ活動と小説に耽溺しすぎて大学受験に失敗し、そこで自殺未遂をしたところからはじまる。

残念ながら私の脳は期待したほどの性能は無く、日々書きたい物語や世界が膨らみ続け、それと受験の両立は不可能になっていった。受験生なのに受験日を間違えたりしたあげく、滑り止めの大学の受験日に私はヒドい不眠の結果強い絶望に陥り、ズボンのベルトで首を吊った。

でもベルトのバックルが切れ、私はブリキのゴミ箱の上に落ちてアゴを切って失禁してるところを親に発見されて病院に直行した。

その病院は自傷他害の危険があると判断、措置入院を指示した。だがその措置入院の同意書には県知事の認可がないと退院できないなどの凄まじい文言があり、親も私もそれに恐怖して別の病院を探した。そしてそこに入院した。

そこから私は廃人同様の日々を過ごした。それでも抵抗して本を読み新しく買ったノートパソコンのワープロで書き物をした。今思えば入院費とパソコンの出費で親にはメーワクかけたが、私にはそれをおもんばかる余裕は当時なかった。生きていると言うより死んでないだけに思える身体の不調、精神の不調で生きる上での望みは書くことだけだった。

そしてその時、私は初めての長編小説を書く。それがのちに「エスコートエンジェル」として出版されるのだが、その時はそんなこと分からなかった。

しばらくして退院してもその心と体の不調はヒドいものだった。同性の幼なじみが会いに来てくれたが、それすらもまともに相手できない蝕まれ方だった。

それなのに、奇跡が起きた。新潮社に送った原稿の返事が講談社から来た。意味不明に思うだろう。でも事実である。新潮社に送る原稿のコピーが私の父の手から父の同僚に、さらにそこからリレーされ、偶然それが講談社の当時文芸第三にいた唐木氏に渡ったのだ。唐木氏からは文筆の望みのないことを諭すとても丁寧な手紙を頂いた。だが私はそれに返事を出した。

そこから文通がはじまった。その頃はNIFTYなどが全盛であったが、私は文通だった。小説をジャンジャン書いて送った。長いものはA4で500枚にもなり、綴じるにはリングファイルが必要だった。それでもその半分まで唐木氏は読んでくれた。今思えばとんでもないメーワクだったが、唐木氏は許してくれた。私もそれに縋った。

そしてとある日。そのリングファイルの原稿を短く出来ないか、と唐木氏に提案された。私は喜んでその作業に没頭した。そして唐木氏と初めてあうことになった。場所は新宿駅コパトール。駅のなかのコーヒースタンド。当然唐木氏は知らなかったわけで、私の非常識だったのだが氏は、必死に探した荒い息と入場券切符を片手に、少しも怒らずに新宿駅前の「滝沢」に連れて行ってくれた。

そこで話して、唐木氏は予防線を張りながらであったが原稿のやりとりを承認した。私は喜んだ。実は私、その時唐木氏のことをよく知らなかった。でも当時すでに京極夏彦氏のプロデュースで大成功していたのだった。

私はそんなことも知らず、原稿を夢中て書き続けた。そしてその結果、デビューが決まった。「プリンセスプラスティック母なる無へ」が処女作だった。この本、私を大いに勘違いさせたり帯を書いてくれた大森望氏がそれを後悔するようなことをネットで書いたりして当時珍しかったネット炎上になった。それでも実害は特になく、私は苦手な推理の2冊目を出した。これは今の鉄研でいず!に繋がっている。この本に出ている竹カナコ巡査長は鉄研でいず!に出てくるサイバー犯罪対策課の竹警部である。

そのあと私はすこし本が出なくなった。新人作家のよくある状態になった。その時私は悪あがきで実は集英社に持ち込んでラノベで出そうとしたのだが、その集英社で「せっかくなんだから早川狙ったら?それダメだったらうちでやろうよ」なんて言われたりもした。ありがたいことだった。そして早川に送って、返事を待ちながらも小説を書き続けていた。

だが20代半ばの私の実際は本出してもニートも良いとこだった。それでも公募ガイドでスキルを上げるための文芸教室を探した。それが山田正弘先生の教室だった。なんと新日本文学、左翼系の団体の場所で開かれるのだが、先生は「北鮮の味方すんじゃない!」と生徒を一喝することもあったし、逆にリベラルの立場のことを仔細に解説したりと、本当に知的に自由な所を見せてくれた。でも私はその山田正弘先生のことも知らなかった。ただ自分の原稿の話を夢中でしただけ。でも先生は受け止めてくれた。このように私はいつも人に恵まれていた。

そんななか、私は童貞をこじらせていたのだが、精神的に破綻して以降、それはもうよくはならないと絶望していた。

それが偶然だった。メールに「私のホームページ見てください」というメールが届いた。どう考えても今なら詐欺メールとして削除するものだったのだが、なんとそのメール、URLもなかった。詐欺にしても詐欺の図が見えない。

そこで私はなんと、URLがないよ、と返事したのである。

そして返ってきたメールには、プリンセスプラスティックのクドルチュデスという悪役の子の可愛いイラストが添付されていた。そう、それが私の読者であり初めての恋人であり、後に嫁となって離婚する、元嫁なのだ。

そして私と彼女のメール文通がはじまった。それは順調に発展し、私はついに彼女にどこに住んでるの?と聞くにいたった。

九州小倉だった。私は神奈川。遠い。

でも私はそれを越える気になった。旅行社に初めてのデートの宿と飛行機のチケットを発注することにした。私には無縁と思っていた世の中の恋人の世界の話が私に押し寄せた。旅行社の待ち受けの平井堅の曲までもが「健康な男女のする恋の世界へようこそ!」のように聞こえたのだ。

その時、9.11があった。私の小説のように旅客機による自爆テロ。私はおののいたし、彼女も飛行機の旅を心配した。でも私は勇気に満ちていた。なにがあっても絶対に生き残る、と宣言した。自殺未遂したのにここまで快復したのだ。

そして福岡に私は向かい、宿に荷物を置き、宿泊中に何か書こうとパソコンをセットした。その時早川の編集さんから電話があった。出す本の折数を埋めたいのだが、広告を載せるか、それとも何か書く?と言うものだった。福岡での待ち合わせに時間があった。私は勿論、デート前にひと仕事書くことにした。何も辛くも怖くもなかった。ただただ、自分の運命を自分で切り開ける喜びに満ちていた。

時間がきた。私は福岡の喫茶店で彼女と待ち合わせていた。私のコートの背を叩いた彼女。私たちは出会いの喜びを手を繋いでグルグル回って喜んだ。アニメやマンガでよくあるシーンだが、私たちはまさにそのキャラと同じことをした。

そして、彼女と話をし、建築を見て楽しんだ。私も彼女も趣味は素晴らしく一致した。楽しいなんてもんではなかった。あれより楽しいことはもうないと思う。最高のひとときだった。

だが、私はデートをすると決めたとき、なにを以て成功とするか、決めていた。キスをするつもりだった。それをせずに帰らない、と決めていた。

でもあまりにも楽しくてその隙がなかった。私は焦りはしなかったが、その隙を探していた。

そしてそれがきた。話尽きて笑ったその博多の改築中のパチンコホールのゲートのところだった。

私は隙あり!と一気にキスをした。彼女もそれを待っていたのか、それは成立した。でも恋に幼い私たちはキスの時に歯をどう隠すかなんてことも知らなかった。幼すぎるキスで2人の歯がガチガチと当たった。でもそれも私たちは2人で笑い合った。

そういう恋を私たちはした。それはその後、遠距離恋愛からまさかの私の小倉駆け落ち、小倉での同棲、そして結婚と新婚での神奈川復帰となるのだが、それはまたなにかで書くかもしれない。

ただ、私の人生はそういう劇的なシーンの連続であった。今それを書く余裕がたまたまあった。ただそれだけである。

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