大学時代、オノ・ヨーコの息子と麻雀を打っていた件
将棋部の麻雀仲間
先日、大学時代の友人Sと久々に会う機会があり、昔話に花を咲かせた。Sは大学時代 将棋部に在籍しており、僕も将棋部には麻雀仲間がいたので、自然と会話が共通の知人、一柳についての話題となった。姓だけは覚えているが、名前は知らない。要はその程度の付き合いだったということだ。
ただ、彼の父親については、フルネームで知っていた。理由は後述する。
一柳を紹介してくれたのは、彼と同じ将棋部に所属していたY先輩である。そのY先輩と知り合ったのは、将棋部に所属していた、同じクラスのMの紹介によるものだ。
Mリーガーを眺めても、将棋好きは多い。大介さんは、プロ棋士なので別格だが、猿川真寿プロ、堀慎吾プロ、鈴木たろうプロ。知っているだけでこれだけいるので、他の麻雀プロにも、将棋好きは多数いるだろう。また、将棋のプロ棋士も、麻雀好きは多いという。将棋と麻雀は全く別物だが、同じ頭脳ゲームなので、何らかの共通点があるのだろう。
かくいう僕も、高校時代に将棋にハマっていた時期があった。クラスメイトに、当時アマチュア二段の実力を持つTという男がいて、勉強はろくに出来ないくせに(笑)、将棋は滅法強かった。対局は学校の休み時間を利用した。玩具ではあるが、マグネット付きの駒とスチール製の将棋盤を使って対局していたので、授業が始まり勝負が中断しても、次の休み時間に、駒の位置がずれる心配もなく、対局を再開することが出来た。
実力差は歴然としており、Tへの連敗が続いた。奴に一矢報いるため、大山康晴先生や中原誠先生の本を買って、将棋の基礎的な定石や、基本戦術を学んだ。しかし、駒落ちのハンディキャップをつけて対戦しても、Tには二枚落ちどころか、六枚落ちでも勝てない。途中から対局を平手に戻したが、彼とは100戦近く対戦して、勝てたのは僅か1回だけ。それもTのミスによるもので、Tはその局を早々と投了し、その敵を取るべく、さっさと次の対局を始めた。
社会人になってから、地元に就職したTと、麻雀仲間として付き合いを再開したが、高校時代の将棋で負けた鬱憤を、麻雀で晴らしたことは言うまでもない。
例によって、話が大分それたので、軌道修正をする。
麻雀で面子が足らないと、Y先輩からしばしば呼び出された。大抵は渋谷の雀荘だったが、時々高田馬場の雀荘にも呼び出された。高田馬場の雀荘は早大生の巣窟だったが、ゲーム代が格安なので、長く打つ時によく使った。一柳とはY先輩と将棋部員と共に卓を囲むことが常だった。麻雀以外の付き合いは一切無かった。
一柳 慧(とし)
一柳の父親は、一柳 慧といって、高名なクラシック音楽の作曲家である。青山学院大学から、ニューヨークのジュリアード音楽院へ転入したことは、後から調べて知った。一柳が幼稚舎から青学に通っていたのは、父親の母校だったからであろう。
僕の一番の趣味は麻雀だが、クラシック音楽の鑑賞が、三番目の趣味に位置する。(ニ番目は内緒♪) 特にドイツ系の音楽が好きで、バロック、古典派、ロマン派の音楽を好んで聴いていた。作曲家の名前で言うと、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといったメジャーどころだが、飽きてくると、時たま武満徹や、ストラビンスキーといった、現代音楽も聴いた。
それ故に僕は、一柳 慧という現代音楽の作曲家の存在を知っていたのである。しかし残念なことに、一柳 慧の音楽の価値を、真に理解して聴くことが出来るほど、僕の音楽的素養は豊かではなかった。
一柳との対局
一柳は将棋部にはおよそ似つかわしくないキャラクターだった。長髪で服装もロックミュージシャンのような派手な出で立ち。また、そういった外見とは別に、人間としても明らかに異彩を放っていた。一言で言えば、一目見て印象に残る人物とでも言おうか。顔はやや面長だが端正な造りで、眼光は暗く そして鋭かった。
一柳と麻雀の対戦をしたのは、数回程度だったと思う。どんなに多く見積っても、彼と二桁以上の回数を打った記憶はない。将棋部の麻雀で、面子が足りない時の穴埋め要員なので、これは致し方ない。
彼は将棋と同じくらい麻雀が好きで、面子とルール、場所を選ばない打ち手であった。
初対戦の時、キーとなる一局が半荘2回目に訪れた。持ち点は約21,000点の3着。11巡目で下記の聴牌を入れた。出和了り跳満、ツモって倍満の勝負手である。
その一方で、親番で下家の一柳は、染め手の仕掛けを入れて3副露。下記の手牌となっていた。
一柳の最終手出しは發で、萬子は1枚も捨てていない。そこへ僕がツモって来たのが、五萬だった。一柳は聴牌濃厚である。僕は長考した挙げ句、降りを選択してしまった。今の自分にしてみれば、あり得ない選択である。ここは例え放銃したとしても、押して然るべき局面だった。
僕が安全牌を抜いて聴牌を崩した直後、下家の一柳が数秒前まで和了牌だった7筒をツモ切りした。
その局は結局誰からも和了が生まれず、流局となった。親の一柳がノーテンを宣言した瞬間に、僕の中で何かが崩れ落ちた。自分の弱気な逃げ打ちが尾を引いて、その日は思うような麻雀が打てず、惨敗した悔しさは、昨日のことのように覚えている。
オノ・ヨーコ
さて、友人Sとの昔話に戻る。「え?一柳の母親が、『オノ・ヨーコ』(小野洋子=元ジョン・レノン夫人)って知らなかったの?」Sは意外そうに、僕に向けて言葉を発した。
ここで若い人のために、ジョン・レノンについて説明をしておく。ジョン・レノンは、1970年代に世界を席巻したイギリスはリバプール発祥の4人組のロックバンド、BEATLESのリーダーで、ボーカル兼ギタリストである。彼はバンドのために、多くの楽曲を書いており、その人気は、ポール・マッカートニーと二分していた。
ジョン・レノンは、二番目の結婚相手として、オノ・ヨーコを選び、一子をなしている。しかし、BEATLES解散後、アメリカに移住したジョン・レノンは、狂信的なファンの凶弾に倒れるという不幸な最期を遂げている。
彼はオノ・ヨーコがジョン・レノンと結婚する前に、前夫である一柳 慧との間にもうけた子であると、Sは言っているのである。将棋部の中では、誰もが知っている話なので、彼としばしば卓を囲んでいた僕も、てっきりこの話を知っていると、思い込んでいたらしい。
30数年の時を経て、聞かされた事実に、ただ僕は驚愕するしかなかった。
一柳は大学を卒業後、赤坂ドリブンズのチームオーナーの系列の企業に入社し、間もなくヨーロッパへ赴任。そのまま現地に定住したと聞く。将棋は続けているらしく、イギリスで開催された将棋大会に、エントリーしたという情報を耳にした。
果たして彼は、今でも麻雀も続けているのだろうか?
真実と疑念の狭間で
ここまで書いておいてなんだが、ウェキペディアで、一柳 慧とオノ・ヨーコについて調べてみた。二人の間には確かに婚姻関係はあったが、子をなしたという記述は、見つからなかった。
ウェキペディアに記載されていることが、全て事実でないことは知っている。また、全てを網羅している訳ではないことも、解っている。
ただ、一つだけ言えることは、一柳は父親似ではない。そして、むしろ小野洋子に近い面差しをしている。真実を知っているのは、もはや当事者達だけであろう。
遠い昔、同じ大学の同級生という、比較的近い位置に居たとはいえ、長い年月を経て遠く離れてしまった今となっては、只ただ、想像を巡らすしかない。一柳の母親が、オノ・ヨーコであったかどうか・・その謎は、謎のままに留めておいた方が、良いのかもしれない。
(終わり)