学者はネットの誹謗中傷を、どこまで「刑事告訴」すべきか
この問題にはあまり関わりたくなかったが、元大学教員としてさすがに看過しかねるので手短に。
ウクライナ戦争の「専門家」として活躍する東野篤子氏(筑波大学教授)を、茨城県警本部の警部が誹謗中傷していた事件が話題になっている。Twitter(X)で容姿を侮辱する下品なもので、この警部の行いを擁護する人は誰もいない。
一方で、SNSでの中傷が民事訴訟に発展する例は多いが、今回、東野氏が加害者を刑事告訴したのは異例である。そして報道からは、その経緯がよくわからない。
多くのメディアで一致する事実関係は、①警部による中傷(おそらく最初のもの)が2023年5月であること。②東野氏が24年4月に刑事告訴したこと。③茨城県警が6月18日に書類送検したことである。
問題を最初に報じたのは、6月20日発売の『週刊文春』同月27日号だった(有料記事の形で購入できる)。同誌は「チラ見せ」の前文でも、現職の警官である容疑者が「Qアノン」を自称していたと報じ、波紋を呼んだ。
双方に取材した文春の記事からは、①2024年1月に東野氏の弁護士から、損害賠償を求める通知が加害者に届いたが、②同警部は2月にも中傷ツイートを繰り返し、③現在は警部の謝罪文が東野氏の手許にあるが、彼女は内容を信じていない――ことがわかる。しかし、刑事告訴に踏み切った理由は不明のままだ。
「刑事罰を科すべき」とする告訴は、国家として犯罪だと認定しろという要求だから、単なる民事の賠償請求とは意味が違う。
加害者が警察官という、国家権力を構成する一員であることを重く見て、刑事で告訴したという理由はあり得るかもしれない。その場合、東野氏が加害者の現職を知った時期と手段が問われる。
一方、6月22日の日本テレビの番組で、東野氏は「ウクライナを支持している人を、人格攻撃や、外見の中傷をしているのがよくない。それを誹謗中傷の原因として使ってはいけない」と述べている。取材時の動画を編集する際の、切りとり方が適切かはわからないが、これは気にかかる。
あたり前だが、人格攻撃や外見の中傷は、相手の立場や思想を問わず行うべきではないのであって、ウクライナ支持かロシア支持かは関係ない。このTV上の発言だと、「Qアノン」(=ロシア支持者が多いとされる)なる加害者の思想を理由として、刑事告訴を選んだとも解釈できてしまう。
東野氏は自身が「親露派」とみなした相手を、激しくTwitterで攻撃することで有名で、そうした手法を囃して煽るかのような記事を論壇誌が載せることに関しては、私も3月に問題を提起した。
今回の刑事告訴についても、そうした東野氏の攻撃に巻き込まれた研究者(英語学者の羽藤由美氏。なお、彼女は別に親ロシアの言論活動はしていない)からは、妥当性を疑う声が出ている。
著名な国立大学で公職に就くとともに、TV・雑誌メディアの常連でもある東野氏は、寄稿ないしは会見等の形で、(民事の賠償請求に留まらず)刑事告訴を選んだ経緯を説明すべきだ。それをせずに、上記のような疑惑が囁かれることは、学問の自由や大学の自治をかえって危うくする。
2020年のコロナパニック以来、不快に感じる存在を「国家の力で排除したい」とする欲求が自明視される流れに対して、私は一貫して警鐘を鳴らしてきた。コロナの際に対応を間違えたリベラル派は、今回もまたSNS上の中傷に対して「懲役刑を科すべきだ」と高唱し、前例はあるのかと呆れられるに至っている。
いかに醜悪で、許しがたい相手であれ、処罰感情から私生活に公権力を導入する発想は、一歩間違うと国家を無謬の裁定者とみなす罠に陥る。事実、コロナのピーク時に近い状態が実現しかけたとおり、それは社会の「ロシア化」でもある。