新書大賞の選考委員を辞退しました。
一昨日のホルダンモリさんとのシラス配信でもお話ししたとおり、2019年の刊行分から継続して担当してきた『中央公論』誌の「新書大賞」の選考委員を、この度辞退しました。
つまり、2023年分については(末尾に記す通り5冊選んではおりましたが)投票しません。著者5名の方々には申し訳ありません。
誤解のないよう急ぎお知らせしますが、この賞自体に不満があるといった理由ではまったくないです。むしろ投票の換算基準が明瞭で、集計にあたり恣意の入る余地のない点で、現状では類例のない優れた賞だと思います。
同賞に関わるのを辞めるのは、ひとえに私個人の事情で、人文書を取り巻く「読書界」のようなものの有効性を、信じることができなくなったためです。
数十万~百万部の大ベストセラーも稀に出るとはいえ、新書の世界では数万部に達すれば十分、その年を代表する一冊になります。一方で(コミックや写真集はさしあたり除き)狭義の活字に限っても、「5~10万部のヒットならザラ」な書籍のジャンルは色々ある。
自己啓発、ビジネス書、宗教・スピリチュアル、ハウツー、タレント本……。そうした本を軽く見る人もいて、だからほとんどは書評も載らず、賞を受けることもありませんが、でも多くの読者に自分のお金で買われている以上、そこには大きな「影響力」が現にあるのです。
逆にいうと、そうした「ヒットが珍しくない」ジャンルに比べて影響力は微々たるものだけど、でも、この内容は社会に知られてほしい、そう感じた書籍を少しでも世に広めるために、世の中には「読書界」みたいなものが存在している。
属する人たちが新聞や雑誌に書評を書いたり、著者へのインタビューや対談などのイベントを組んだり、賞を出したりすることで、内容本位で(=著者の知名度や世間でのバズり具合とは無縁に)優れた書籍をエンパワーしてゆく。そうした仕組みが機能していると、長らく思われてきました。
ですが、日本における新型コロナウィルス禍の最後の年だった2023年を終えたとき、個人的にはそうした「読書界」が実際にあるのかどうかを、信じることができなくなりました。
2020年に始まった危機の最中、私は21年6月に『歴史なき時代に』、22年5月に『過剰可視化社会』と、2冊の直接にコロナ禍を論ずる新書を出しました。医師や医療ジャーナリストといった狭義の「業界」の書き手を除けば、人文書の著者として類例のないものと自負しています。
しかし最後の年となった2023年、コロナ禍とは何だったのかを総括しようとする試みは、数ある媒体を眺めても企画自体がほとんど立たず、ごく稀になされても、私に声がかかることはありませんでした。
11月からこのnote でも報告してきたとおり、同年も寄稿・出演の機会には多く恵まれましたが、しかし人文学の立場から2冊にわたって日本のコロナ禍の問題点を論じ続けた実績に関しては、はっきり言えば「要らない」と判定された。そのように、私としては受けとめました。
ご記憶でしょうがコロナ禍の最初期には、この危機は「史上初」であり、「現代文明を転換」し、「人類史の画期」になるといった最大級の歴史のメタファーが飛び交いました。ウィルスとの「第三次世界大戦だ」とする喩えに、当時の総理大臣が頷く一幕さえありました。
しかしその「第三次世界大戦が終わった」のに、あるいは「人類史・文明史が転換した」のに、それを振り返らないということがあり得るのでしょうか。あってよいのでしょうか。
危機の最中でみんなが関心を向けている間は、バズり目当てで「未曽有の事態」「歴史的な事件だ」とウケることを言い、注目されなくなるや当時の言動は黒歴史に放り込んで、口をつぐむ。そんな虫のいい言論ビジネスを放置することで、いまのメディアは知性も誠実さもない、単なる「言い逃げ屋」ばかりを育てていないでしょうか。
その状況を不問にしたまま、さほど売れないジャンルの中でも「この本はよかったし、今年も充実した読書でしたよ」といった投票をすることは、(2冊の新書を刊行し、一貫して「戦時体制」のおかしさを批判し続けた)私にとっては耐えがたい自己欺瞞になると感じたので、委員を辞させていただきました。
『中央公論』誌の担当者からは、上記の事情を添えて辞意をお伝えした際、温かく丁寧なお返事をいただいたこと。また以下に掲げる「本来なら投票していた新書の著者」には、重ねて申し訳なく思うことを付記します。
ヘッダー写真は、有名な「過去に目を閉ざす者は…」演説時の西独大統領ヴァイツゼッカー(1985年)。ハフポストの追悼記事より。
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