尾久守侑さんと書店イベント(6/6)やります。
今月下旬に『倫理的なサイコパス ある精神科医の思索』を刊行される尾久守侑(読みは「おぎゅう・かみゆ」。詩人としても知られる)さんと、来月に書店イベントやります。
6/6(木)19:00~、代官山の蔦屋書店にて。現地での観覧のほかに、Zoom視聴のチケットもあるので、遠隔地の方もご参加いただけます。詳しい情報はこちらをご覧ください。
尾久さんとは面識がなく、当日が初対面になります。また『倫理的なサイコパス』というのも物騒で、奇妙なタイトルですが、版元の晶文社さんに抜粋を送っていただいて、「ぜひお話ししてみたい!」と即決しました。
著者本人による、「倫理的なサイコパス」概念の説明は、以下のとおり。
このエピソードだけでも、色々と考えちゃいますよね。
僕流にいうと、(自分の観点では)イミフな主張を叫ぶ人を見たとき、「しかしこの人なりには、そうなってしまうゆえんがあったのかな」と個別の過去を遡るのは歴史がある社会のやり方。逆に「あぁ、コイツどうせ○○でしょ」とグルーピングして相手の内面を見ないのは、歴史なき社会の表われなんですよね。
今は「お前女だから」「お前日本人だから」みたいな、近代に猛威を振るったジェンダーやレイシズムのカテゴリー分けは表向き抑制されているので、「○○系」「△△世代」「××症候群」……云々の、正体不明な新ラベルがどんどん湧いてはバズり、消えてゆく。歴史がなくなるとは、そうした転換を指していたのかなとも思います。
尾久さんも直前の箇所で言及するように、相手の個別性を見る(診る)ことを諦め、カテゴリーへの振り分けで効率と最適化を図る営為は、救命医療のトリアージに似ています。ある意味ですごいサイコパスだけど、でもやらないと医療体制を維持できない。だから、「倫理的なサイコパス」。
今の日本が変なのは、「究極的に考えると」最後はトリアージの論理に直面する、という省察を、「だったら初手からいきなりトリアージでいいんじゃね?」にすり替える人が増えたからでしょうね。哲学ブームで一時流行った「トロッコ問題」も、そうした話に行きがちでした。
彼らは倫理的でない “タダのサイコパス” ですが、しかし今日の社会では、ふつーの人ほど経済学者がビビるくらいの「純粋な消費者」になり、相手の顔を見ずに効率性ばかりを追い求めがちな点は、前回採り上げた『Z世代化する社会』でも見たとおり。
そんな現在をどう診断するのか。医師と患者の双方の視点から、迫る対談になればと思っています。多くの方にご参加いただければ幸いです!
P.S.
代官山蔦屋書店さんと言えば、2019年に臨床心理士の東畑開人さんと最初にお会いしたのも同店のイベントでした。当日の抄録はこちらから。