検索用語という「読む合法ドラッグ」が知性を蝕む
昨日発売の『Voice』4月号の特集は「デジタル帝国が変えた世界」。そちらに論考「総検索社会がつくる『新しい全体主義』」を寄稿しています。
『平成史』の随所で使って以来、わりと好きな手法なんですけど、今回もこれはもともとなんの文章でしょうクイズで書き始めていますので、こちらでもちょっと訊いてみましょう。
『Voice』の寄稿で紹介した回答例は、まずは欧米のオルトライトに御用達の「ディープステート(DS)」。DSなるものが「ある!」という目線でニュースを読むようになると、いろんな事件や情報がDSの存在を示唆する証拠に見えてくるんですよね。英国の前首相までそうした発言で話題を呼んだのは、記憶に新しいところです。
それは別に、右翼の専売特許でもありません。DSと異なり日本ローカルの現象ですが、にわかに統一教会を論議することに熱中し始め、統一教会を探し求めることを覚え、突然まさかと思えるようなところで「統一教会にぶつかったぞ!」って叫んでた人たち、最近まで多くなかったですか?
ちなみに同じ人たちは、統一教会が流行る前は「日本会議を論議すること」に熱心でした。正体不明のDSと異なり、統一教会は(いまも)宗教法人だし、日本会議も昔から公式サイトのある公然の団体で、別に秘密結社じゃないんですけどね。
団体名のような固有名詞を入れると陰謀論っぽくなるわけですが、学術的(?)な概念の名前でも結構行けそうです。たとえば一時期人気のあった「マンスプレイニング」なんてどうでしょう。
確かに居丈高に説教してくるおっさんっているんですけど、そのエクスプレイニングがマンなところから来ているのかはわからない(*)。そういうオヤジってだいたい女性だけじゃなく男性にもエクスプレインしてるし、(これまた相手の性別を問わず)エクスプ大好きなおばさんも結構います。「私、当事者なんですけど?」とか、「専門家なんですけど?」とか。
ところが一度マンスプレイニングって言葉を覚えて濫用していると、最後は「男性と意見が衝突した」だけでも「マンスプされた!」と叫ぶ人になってしまう。それ、あなたがその用語知ってるって言いたいだけですよね状態なんですが、でも本人は大まじめだったりするわけです。
(*) 実は一番の難題は、エクスプレイニングが発達障害から来る場合です。多くの当事者の証言にもあるように、症状として他の人の内面がわからないので、エクスプレインしがちなんですよね。「これは相手も知ってるかな」「この言い方は不快にさせちゃうかな」とか、気を回せないんで。
「この用語でググってみよう」「この概念で世の中を見てみよう」といった検索ワードは一歩誤ると、使った結果得られるイイ気持ち(こんなこと言える俺スゲー! 私は真実を見抜いている!)に依存させる合法ドラッグになりがち。そうした副作用にどこまで留意しつつ言葉を使えるかが、その人の知的な健康さを決めてゆきます。
さて、そろそろ答えをお知らせすると、冒頭の引用の出典はアドルフ・ヒトラー『わが闘争』(角川文庫・改版、上巻90頁)。カッコに入るのは「ユダヤ人」でした。
ちょうど、気に入らない政治家の名前を見るや「統一教会を探し求める」癖がついちゃった人たちと同じように、ヒトラーも人生のある時期から、イラッと来る表現や主張や団体と出くわすごとに「これユダヤ人が関わってないか?」と調べ出す人になったんですね。その帰結については、知らない人はいないでしょう。
ヒトラーの時代、個人情報を調べるのは相当に手間だったはずですが、今日の総SNS社会ではさっと検索するだけで同じことができてしまう。だから私たちはいま、かつてなく誰もが「カジュアル・ヒトラー」になりがちな時代を生きている。
こうした観点から、たとえばアーレントをはじめとする古典の知見とも対照しつつ、インターネットでいま生まれつつある「新しい全体主義」との向きあい方を考える論考になっています。多くの方にご一読いただけるなら幸甚です。
P.S.
私は昭和史の著書はあっても、ファシズムの専門家ではないのですが、ナチス研究のプロってこうした現状に対してなにしてるんですかね。
まさか、アイヒマンのようにオンライン全体主義をジーク・ハイルしながら「ナチスは『良いこと』をしてないうおおおおおお!」と叫ぶのが対策だと思ってる? いやそれはないでしょう、腐っても学者なんですから(笑)。