幸福なじいじ(掌編小説)
きらきらと光を反射させながら小川がゆるやかに流れる。
白いワンピースを着た少女は、つややかな黒髪を揺らして、来る途中に林の中でちぎった葉を一枚、川べりから投げ入れた。葉は岸からほど近い水面に落ち、案の定、すぐに川の淀みにとらえられてしまったが、特にがっかりした様子も見せず、少女はまた一枚、今度は先ほどより勢いをつけて放り投げた。
小川には石橋がかかっている。その真ん中から放り投げれば、きっとスイとどこまでも流れていくだろう。しかし、少女はそうしない。この橋を使うことを許されていないのだ。
二枚目の葉もそれほど流れて行かないうちに止まってしまったが、少女のまだあどけない顔に浮かんでいたのは抑えきれない喜びだった。
(じいじにもうすぐ会える)
祖父が橋を渡って来るのを少女は待っているのだ。その知らせを聞かされてからずっとここで。
しばらくすると霧の中に影が浮かんだ。長い睫毛に縁どられた黒目がちな瞳が輝いた。
(じいじや!)
少女の記憶よりずっと皺が深く、痩せて小さく見える。
老人が橋を渡りだす。まだ少女には気づいていておらず、顔には少し途方に暮れたような表情が浮かんでいる。
少女は叫んだ。
「じいじ!」
老人はハッと顔を上げ、その目が少女を捉えた。
「紗希ちゃんか?!」
「うん、紗希!」
少女は、橋を渡り終えた老人に駆け寄り、抱き着いた。
「紗希ちゃんにまた会えるとは思わなんだ」
老人は崩れるように体をかがめ、少女の小さな体をひしと胸に抱きしめた。
「ごめんな。じいじ、紗希ちゃんにひどいことしてもうたなあ」
老人はそう言ってぼろぼろと涙をこぼした。
*****
あの日のことを忘れたことはなかった。
「このようなタイミングで申し上げるのは大変心苦しいのですが、……お嬢さんは臓器を提供することができます。選択の一つとしてお伝えさせていただきます」
医師の言葉に少女の両親――老人の娘とその夫――は顔を涙に濡らしたまま茫然としていた。娘が脳死状態であることすらまだ受け入れられていないのだから、無理もなかった。
「ご家族の選択を尊重いたしますので」
そう、医師は丁寧に頭を下げた。
「紗希の体を切り刻むやなんてできる訳ないやんか!……あの子、まだ八つやのに」
老人の娘は台所の椅子に座り、肩を震わせた。向かいに座る父親はテーブルに両肘をつき、両手で目を堅く覆っている。
病院を出て、皆で夢遊病者のようにフラフラと帰りついた家は重苦しい空気に沈んでいた。一週間前のあの事故まで、甲高い元気な声が毎日のように響いていたのがまるで幻のようだ。もう二度とあの声を聞くことができない、その事実が今さらのように老人を打ちのめした。
自室に入り座椅子に腰を下ろした老人は、ふとテレビ台の横に立てかけられた一冊の本に目を留めた。子供のための童話集だ。共働きの両親に代わって、毎日のように学校から帰った孫娘と遊んでやった。本が好きな子だったから、たくさん物語も読んでやった。
老人は半ば無意識でその本を手に取り、ページを開いた。
『エンドウ豆の上に寝たお姫様』、『親指姫』、『長靴をはいた猫』、『ハーメルンの笛吹き』--それから『幸福な王子』。
(紗希ちゃんの一番好きな話や)
--お城の中で何不自由なく幸せに暮らしていた王子は、死後、宝石と金箔に飾られた美しい銅像となる。しかし、王子はもう幸せではなかった。町の真ん中に立ち、初めて庶民の苦しい生活を目の当たりにして、心を痛めていたのだった。
ある日、王子は、南へ向かう仲間たちからはぐれた一羽のツバメに出会う。王子は、ツバメに自分を飾る宝石を一つずつ、助けを必要としている人々の元へ届けてくれるように頼む。次第に変わり果てていく自身の姿を気にもかけず、王子はしまいにはサファイヤでできた自らの瞳まで手放し、盲目となる。いつしか王子を慕うようになっていたツバメは、自分を見捨てて仲間の元へ行くようにという王子の懇願にも耳を貸さず、王子にずっと寄り添うことを決めるのだった。
やがて冬が訪れる。市長はすっかりみすぼらしくなった銅像の撤去を命じ、王子の銅像は溶鉱炉に入れられた。しかし鉛の心臓だけは溶け残り、傍らに転がっていたツバメの死骸とともにゴミ溜めに捨てられた。
その様子を天上から見ていた神は、一人の天使にこう命じた。
「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」
天使は、ゴミ溜めの中から王子の心臓とツバメの死骸を持ち帰った。神は天使の選択を褒めた後、王子とツバメを楽園に住まわせ、永遠の幸福を授けたのだった。
ツバメが王子に別れを告げ、その足元で死んでしまう場面でいつも涙ぐんでいた。
「私も大きくなったら、この王子様やツバメみたいな優しい人になりたいな」
「紗希ちゃんは、今でも十分優しい子やで」
「家族だけやなくて、いろんな人を助けてあげられる人になりたいねん」
そんな会話を思い出した。それと同時に、病院での医師の言葉が脳裏に甦った。
(紗希ちゃんは人の役に立ちたいんか?)
まだ八つだ。臓器移植が何なのかも知らなかっただろう。しかし、老人には孫娘がそれを望んでいるような気がしてならなかった。天国に行く前に誰かの役に立ちたい、あの子ならそう願うのではないか。あの子の願いを実現してやれるのは自分だけではないのか……。
使命感に駆られ、老人は二日かけて娘夫婦を説得した。最初は非難の言葉をぶつけてきた娘も最後には理解してくれた。
「そうやね、父さんのいうとおりかもしれへん。紗希は優しい子やったから、誰かの役に立てる方がきっと喜ぶよね」
少女の体からは五つの臓器が取り出され、病に苦しむ五人の患者を救った。変わり果てた姿で帰って来るのではないかという恐れも、少女の驚くほど安らかな表情と丁寧に縫い閉じられた傷を見て杞憂だったと知った。
半年、一年と経つにつれ、娘夫婦は、自分たちの子供の命が今も臓器提供を受けた四人の中に生き続けているということを拠り所にして、少しずつ前を向き始めた。
しかし、そんな二人とは逆に、老人の心はしだいに重くなっていくのだった。
(あんな小さい子を傷つけてしもうた。あんな童話を思い出したばっかりに…)
なぜ老いた自分だけがのうのうと生きているのか--。時が経つにつれ、そんな後悔に苛まれるようになった。
*****
「じいじ、泣かんといて。じいじはひどいことなんかしてないで」
老人の腕の中で少女が言う。
「それやのに……、お父さんとお母さんは元気になったのに、じいじがいつまで経ってもしょんぼりしてるから、私、心配しててん」
老人が腕を解くと、そこには眉根を寄せた少女の顔があった。
「そうか、心配かけて済まんかったなあ。でも、紗希ちゃんは大きくなれへんかったのに、じいじばっかり長生きしてしもうて、悪くってなあ」
急いで顔を拭い、ぎこちない笑顔を作った老人に、少女は明るい声で言った。
「じいじ、私な、空から見せてもらってん。私の心臓や肺をもらった人が元気に暮らしているとこ。みんなすごくうれしそうにしてたから私もすごくうれしかってん」
「そうか」
「じいじが幸福な王子様のお話のこと、思い出してくれたからやで。じいじはいつも私の味方や」
こらえきれずにまた目頭を押さえる老人を見上げながら、少女は笑顔で続けた。
「私は大きくなられへんかったけど、王子様みたいに人の役に立つ夢は叶ったで。じいじのおかげやで」
「そうか」
老人はしばし顔を覆って肩を震わせていたが、やがて涙を拭い、少女に向き直ってにっこり笑った。晴れ晴れとした笑顔だった。
少女が手を伸ばす。老人はその小さな手を優しく包み込むように握った。
手を繋いだ二人は、林の方へ歩き始めた。そしていつしか林を抜け、明るい光の中に消えて行った。
<終わり>