「白痴」 (#2000字のホラー応募用)
「山口さん、『遠野物語』って知ってます?」
席に着くなり結城さんはそう言った。勢いよく置かれたマグの中でコーヒーが揺れる。楚々とした外見に不似合いな荒っぽい動作。
私の周りでスタバでアメリカーノを頼むのはこの子ぐらいだ。普段付き合っている友人たちはみんなカプチーノやフラペチーノを頼む。こんなところでも結城さんは少し違うと感じる。
結城さんとは半年ほど前に近県で開催された文学フリマで知り合った。私より五つ下の21歳で、まだ学生だ。ブースが隣同士だった縁で連絡先を交換して以来、ときどきラインをしたり実際会って執筆の話などをするようになった。
「確か岩手とかその辺の民話を集めたものだよね?」
読んだことはないが、名前ぐらいは聞いたことがある。
「新作のネタ?」
そう尋ねると、結城さんは一瞬ポカンとした。そんな表情ですら美人だった。少しの間の後、「ええ、まあ」と、彼女は取り繕うような笑顔を浮かべた。
『遠野物語』の中でも特に興味を持っている話があるのだと言う。
「ある村に白痴の男の人がいて......」
「『白痴』って言葉、今アウトなんじゃない?」
今は「重度精神遅滞」だとか「重度知的障害」と言わなければならないのではなかったか。
「あ、そうですかね。でも今はプライベートな文学談義だから良しってことで。それに私、白痴の方が言葉として好きなんですよ」
素っ気なく返され、内心少し驚いた。話の腰を折った私も悪かったが、いつもの結城さんなら素直に助言に耳を傾け、にこやかに感謝してくれているところだ。
そんな私の戸惑いに気付くことなく結城さんが続ける。
「その男がときどき他人の家に石をぶつけて『火事だ、火事だ!』と叫ぶんです。そうすると決まって数日後にその家は火事になったんですって。まるで予知能力があるみたいに」
「その人が放火してるとかじゃなくて?」
「もちろん、そんなんじゃありません」
村人は気味が悪いやら怖いやら、しかしせっかくの予知を無駄にすまいと火事を何とか避けようと試みたそうだが、運命を逃れた家はなかったという。
「山口さん、この話どう思いますか?」
真剣な顔つきだ。
「どうって、障害者とか奇形の人が超能力を持っているとされたり、聖なる存在扱いされるのは割とよく聞く話だよね?ほら、インドとかでも頭が二つある赤ちゃんが生まれて有難がられてなかったっけ?障害者の人たちが差別されたり虐待されないようにするための救済システムみたいなものだよね」
私だってアマチュアとはいえ物書きの端くれだ。日頃から本やニュースで幅広い知識を得る努力をしている。これは、その一端を披露した発言のつもりだった。しかし、結城さんは私の答えに満足しなかった。
「それは山口さんは基本的にそういうのが作り話だと思ってるってことですよね」
「だって本当のはずなくない?」
「私は、完全な作り話じゃなくて、そういう異能の人が実際にいたんじゃないかと思ったんです。遠野の話も実際の出来事なんじゃないかって......」
占いやオカルトには興味がないと言っていたのにどういう心境の変化だろうと怪訝に思う。
「昔は障害者は神仏の変身した姿ってことで大切にされたこともあったんですよね。でも科学や医学が発達したせいでそういうのは全部迷信で、ただの治療対象の欠陥人間ということになっちゃったんですよね。科学のせいで魔法がとけてしまったんです。ミシェル・フーコーという有名な学者もそんな感じのことを言ってるらしいです」
「フーコーって振り子の人だっけ?」
私の言葉に結城さんは一瞬口をつぐみ曖昧な笑みを浮かべたが、またすぐに話し続けた。
「白痴の『白』って余白の『白』でしょう?空の容器みたいな感じしません?空っぽのスペースがあるから、外から別のものが入ってこられるのかも。外国のシャーマンは麻薬でトランス状態になってお告げを聞いたりするといいます。それってわざと人工的に白痴状態を作ってると言えると思いませんか?霊魂が乗り移る、みたいなオカルト的な話じゃなくて、自我が消えないと感知できない外からの電気信号とか化学的な刺激だとかを白痴の人は感じているんじゃないかとか......」
一種異様な目つきで語っていた結城さんだが、居心地の悪さから私が椅子の上で小さく身じろぎをすると、途端にハッと我に返ったように普段の表情を取り戻し、明るく言った。
「こういうテーマもいいかなと思ったんですけど、やっぱり難しそうですね。ほかにも今執筆中のがあって青春ものなんですけど......」
それからはいつもの結城さんだった。私たちは適当に雑談をし、一時間ほどしてカフェを出て別れた。
それが結城さんと話をした最後だった。
* *
それから間もなくして、結城さんが地方の実家に帰ったと耳にした。
彼女の一人暮らしのアパートが火事で全焼したのだそうだ。結城さんは軽傷ではあるものの顔や体に火傷を負ってひどくショックを受けており、今は地方の実家近くの病院で治療中だという。それを聞いて我知らず笑みがこぼれた。
あの日、結城さんと別れた後、すぐに調べたのだ。地球の自転を観測するために振り子の実験をしたのはレオン・フーコーで、結城さんの話に出てきたミシェル・フーコーとはまったくの別人だった。自分の誤りに気付くと、顔から火が出るような羞恥を感じた。
私の知ったかぶりは結城さんに見抜かれていた。年下の結城さんに知識の量で負けていることを必死に隠しているつもりだったが、きっと会話の端々からばれていたのだ。いたたまれなさでどうにかなりそうだった。それと同時に、結城さんが表では私を立てる振りをしながら裏では見下していたに違いないと思い、腹立たしかった。
スタバで結城さんが繰り返した「白痴」という言葉が私への当てこすりに感じられてならなかった。
だけど、もうそんなことを気にする必要はなくなったのだ。
私の世界から結城さんは消えたのだから。
--アパートの火事を予言する何者かが本当にいたのかもしれない。
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、もうどうでもよかった。何の興味も掻き立てられなかった。ただ、結城さんが消えたことが嬉しくてたまらなかった。
<終わり>