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広島旅行①(11/2〜11/4)

両親と弟と、4人で広島へ行った。姉はタイで仕事をしているので不在だったけれど、家族で旅行をするのは人生で初めてだった。

一泊二日の予定で向かったけれど、行きの新幹線が大雨の影響で止まってしまい、到着したのが予定よりかなり遅かった。結局もう一泊して3日間を広島で過ごした。

そのうち、朝から晩までずっと誰かと会話をして気を遣うのに疲れて、タバコを吸うことでしか1人の時間を作れないのがキツかった。

いろいろな場所へ行った。原爆ドーム、世界平和記念聖堂、厳島神社、ひろしま美術館、大和ミュージアム、縮景園。
今回は原爆ドーム、大和ミュージアム、世界平和記念聖堂へ行った感想をまとめておく。

・原爆ドーム
資料館が閉まるまで時間があまりなかったので急ぎめで観た。内容はかなりショッキングでしんどかった。
爆発に巻き込まれて火傷した皮膚が垂れ下がる人達。ボロボロになった服。水を求める子供と動けない母親。身体中の皮膚は焼け爛れ、髪の毛も無く、瞼と鼻と唇を失ったご遺体。変形した金属やガラス。爆発でガラスの破片が突き刺さった壁。同じようにガラスの破片が背中に突き刺さった父親が、自分の子供に手当てしてくれと頼んだけれど、5歳の力では抜けなかったという話。「行ってきます」と言って帰らなかった人。血の染みがついた枕。被爆して、紫色の斑点が身体中に出てそのまま亡くなった人。髪が徐々に抜けていったという日記の内容。白血病になり、治療するお金もなく、心配させまいと気丈に振る舞って亡くなった人。勇気を出してこれらの写真を撮ろうと思った人。伝えようと思った遺族達。

結局わたしも頭の片隅では、戦争のことをどこか遠くの国の話だと思っていたということがわかり、それを自覚したのもショックだった。観ている途中、あまりに辛くて度々涙が滲んだ。
外国人も多く居た。わたしは、アメリカ人は核兵器についてどう思っているのか知りたい。

原爆は戦争を早く終わらせ、何百万人もの米国人の命を救った

朝日新聞DIGITAL 

核兵器には反対です。人を殺す全ての武器にも

朝日新聞DIGITAL 

どちらの意見が多いのだろう。

広島の被爆者 田中稔子さんは、「As an American I am ashamed. I’m sorry.(アメリカ人として恥ずかしい、謝罪したい)」と語るアメリカ人女性にこう返している。

あなたに謝ってもらおうとは思わないけど、何があったかをお互いに覚えていましょう。平和な世界を一緒に作りましょう

NHK広島ひろしまWEB特集
広島の被爆者 田中稔子さん ニューヨークで思いを“つなぐ”

わたしは、謝って欲しいと思っている。自分が体験したわけでもないのに。1回謝られたくらいでは足りないし、何度も何度も謝って欲しいと思う。でも謝られても、何も取り戻せない。

原爆ドームの前には「FREE PALESTINE」と訴える人達がいた。2024年になっても、まだこの世界から戦争や内戦や虐殺が無くなっていないことが悲しかった。パレスチナ問題について、今わたしに出来ることといえば不買運動しかない。イスラエル産の果物が使われた飲み物などを買わないことや、イスラエルを支援する企業のボイコットなど。人に説明できるほど理解できていないのだけれど、大きな話、多くのアメリカ企業は儲かるとイスラエルを支援するし、イスラエルが兵器を使えば使うほど当然人は攻撃され死んで、その代わりアメリカの軍事産業はどんどん潤う、ということだと解釈している。(いろんな考え方があると思うが、わたしはこう解釈している。)戦争や虐殺は今やビジネスだと。
不買運動すら、親米の父親には「日本に住んでいる時点でアメリカと親密な関係なのだから、無意味なことだ」と言われて無力さに涙が出た。そんな酷い話は聞きたくない。もう誰も血を流さないで欲しいと願い行動することに、それ以上の意味なんて必要ない。(わたしはイスラエルとパレスチナ、どちらの味方だとかは決められないし言えないのだけれど、血を流さずに解決して欲しいという気持ちだけある。)

原爆ドーム
広島城の側に生えていた、世界唯一の被爆したユーカリ


・大和ミュージアム
ここで一番印象に残っているのは人間魚雷 回天の展示だ。魚雷だけで100名以上が亡くなり、その多くは20歳前後だったらしい。遺言である肉声テープが流れていた。誰かの遺言を聞いたのはこれが初めてだった。
戦艦大和の沈没までの経緯をまとめた動画も観た。動画の最後には、他の戦艦の乗組員もあわせて、亡くなった人の名簿がずらっと並んだ。わたしは数字が苦手で、人数を言われてもあまりピンとこないけれど、一人一人の名前を見るとあまりに悲しくなってここでも涙が滲んだ。
戦艦大和の模型の前でピースして写真を撮る人達や、楽しそうにしている高校生たちへ違和感を抱いた。そんな気持ちでいられる場所ではない。

日常生活では戦争でアメリカに負けたことを思い出すことはあまりないけれど、ここではそればかり考えて具合が悪くなった。けれど、「あのとき勝っていたら"具合が良い"か?」と問われたらそれも違う。
幼稚園に通っていた頃、世界には日本とアメリカしか国が無いと思っていた。そう思い込んでいたのは戦後の教育のせいなのか、親米である父親のせいなのか、それともアメリカは事実、それほどまでに"強い"国なのか。

第二次世界大戦が始まった頃のアメリカで主な宗教といえば、今と変わらずキリスト教だったのだろうかとふと思った。ネットで調べたら、戦争が終わったあとGHQのダグラス・マッカーサーは日本のキリスト教化に熱心だったと書いてあったから、やはりキリスト教の人は多かったのだろうなと思う。わたしは高校で、キリスト教は「愛の宗教」だと習ったけれど、隣人愛を謳いながら戦争をすることの矛盾について考えていた。

原爆ドームに引き続き、わたしたち日本人は被害者だ、というつもりでつい色々感じてしまったけれど、第二次世界大戦以前にも戦争はあって、日本はそれに勝ってきたことについても考えていた。戦争なのだから加害者とか被害者とか無いけれど、だれかは一方で被害者で、別のだれかにとっては加害者だということを考えてぐったりした。

・世界平和記念聖堂
多神教の感覚があるわたしだけれど、カトリックの女子校出身ということもあり、わたしはカトリック教会で祈ることにかなり特別な意味を見いだしている。神社へお参りに行くのとは全く違う感覚。神社は神様に感謝を伝える場所で、祈ってはならないといつか聞いた覚えがあるが、教会は祈りの場。無力なわたしが世界平和のために出来ることは祈ることくらいしかない。
マリア像を久しぶりに見て、膝をついて祈った。

わたしが描いた。タイトルは『祈り』

世界が愛で溢れますように。小さ過ぎる話だけれど、まずはわたしが身近な人に愛をもって接すること。これがかなり難しい。りゅうちぇるが言っていた、「みんな必死」という言葉を思い出す。誰だって、常に愛情深く居られるわけではない。強く、ならねば。

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