過去(1) 幼稚園〜小学2年

私は関西のとある県で生まれた。家族構成としては父、母、私、弟の4人家族で弟とは2歳差だ。この頃の記憶は曖昧だが今ほど悪くはなかったはず。幼い頃の私の性格といえば今のような人見知りではなかった。よく転勤で引っ越しをしていたが、新しい幼稚園でも難なく馴染むことができていた。また、弟が生まれる時、私と母が病院で別れるとてっきり泣くと思っていたが全く泣かずに手を振ったことに父方の祖母は驚くほど強いというか無関心な子だった。

しかし、母の私に対する当たりが強くなっていったのは引越した後ぐらいからだった。引越し先の部屋が角部屋ということもあってカビが酷かった。まだ幼く免疫力のない私と弟は頻繁に中耳炎を起こしていた。最初はまだ機嫌が良かったものの回数が多くなるにつれて怒鳴られる回数も増えていった。だから自分でも中耳炎になったと分かっててもずっと黙っていたが、耳の籠もりや痛さには耐えられず、母に病院に連れて行って欲しいと言うたび「またかよ、なんでもっと早く言わへんねん」と。原因が分からない上、何をしても怒鳴られるため困惑状態だった。十数年越しに思うのは父は仕事で帰りが遅かったため育児をするのは母1人だけ。そのストレスでイライラしていたのかなとは今思う。

そんなこんなでまた関西に引っ越しをした。幼稚園も変わったけどそこでも上手く馴染めた。だがその辺りぐらいから今度は父の私に対する当たりが強くなっていった。弟ももちろん被害を被った。父としては賢い子を育てたかったのだろう。年長だった私は足し算引き算を教えてもらったがどうにも理解できなかった。その度に怒鳴られ、頭を拳骨で叩かれていた。弟の方といえば「ソ」と「ン」、「ツ」と「シ」など似ているようなカタカナが書けないことで怒鳴られ叩かれていたのをよく見ていたし、深く記憶に残っている。父としては一回で教えたことをできないと腹が立つようだ。

でも、まだこの時は家族の仲が良くてドライブや遊びにも行っていた。だからこそ憎めないところもあるし、幼いながら困惑していたし、あの鬼のような形相をした人は父なのか疑問だった。

それから歳を重ね小学2年。父と母が地元の中学は不良ばかりで治安が悪いと言い、公文に通うことになった。幼稚園からの幼馴染もいたため楽しかった。この時は算数の計算はできたけど国語の文章問題が全く出来ず先生に答えを教えて〜と机を叩きながらただを兼ねていた。公文の後に親が迎えにきて、駅前の駄菓子屋さんで50円を握りしめてお菓子を買うのが幸せだった。公文がない日は自転車で色んな公園を駆け巡ったり、駄菓子を貪っていた。そんな日々が楽しかったし、好きだった。

けどそれはすぐに終わった。

小学3年生。公文の学習じゃ足りない、地元の中学に行かせたくないという理由で公文をやめて日能研という中学受験の塾に通い始めた…というか無理やり入れさせられた。入塾テストには一回失敗したが二回目でやっと入れた。その頃から母は数字にこだわるようになった。しかもこの塾、成績順に座席が決まるので苦痛極まりなかった。これらのこともあり一層父と母の圧力は強くなっていった。怒られるのも増えたし、このストレスを爪を噛むという方向に持っていってしまった。




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